2022.01.09

「やたらと“エビデンス”を求める人」と「陰謀論にハマる人」、その意外な共通点

じつは両者は似ているのかもしれない…
松村 一志 プロフィール

したがって、「エビデンス」を問うことは、専門家を信頼していないことの裏返しだとも言える。専門家の発言をそのまま信じるのは不安だが、専門家しか情報源がない。だからこそ、信頼して良いのだ(あるいは疑って良いのだ)と安心するために、代理指標として、「エビデンス」の有無を問いたくなるのだろう。

 

「エビデンス」の魅力と危険

そう考えると、「エビデンス」の有無を重視する姿勢は、思いのほか「陰謀論」とも近いところにある。

ここ数年、「地球平面説」や「ワクチン否定論」といった議論が、「科学否定論」(=陰謀論の一種)として問題視されてきた。「陰謀論」と言うと、「証拠」を無視した誇大妄想だと思われるかもしれないが、実は、それもある種の「証拠」には敏感である。すなわち、陰謀の存在を示す「証言」や「物証」あるいは「データ」は、むしろ積極的に求められる。例えば、「ピザゲート事件」や「クライメートゲート事件」では、流出したメールが陰謀を示す「証拠」とされた。

つまり、「陰謀論」もまた、「証拠」の有無によって専門家を信じるべきかどうかを決めようとしている。その意味では、「エビデンス」の有無を重視する態度とも実はあまり違いがない。どちらも専門家が信頼できない可能性を前提しているのである。

おそらく、この背景には、データベースやインターネットの発達によって、一般人でも簡単に画像やデータを集められるようになった状況がある。自分でも調べられるからこそ、専門家が確たる「エビデンス」を持っていないことが分かると、「ほら見たことか」と批判したくなる。「それってエビデンスあるんですか?」という言い回しが、時として妙に攻撃的になってしまうのもそのためだ。

「エビデンス」という言葉を使うとき、私たちはどこか専門家と肩を並べているように錯覚してしまう。そうした自惚れを生み出すところに、この言葉の魅力がある。

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