今回の人物 石原莞爾 vol.3

それは、理想国家だったか? 満州国を思い、大連の街を歩く

vol.2 「西山農場に賭けた石原最後の夢。鳥海山の麓にその墓を訪ねて」はこちらをご覧ください。

 はじめて中国に行ったのは、一九九七年の二月だった。

 小平による「南巡講話」、まず豊かになれる者から豊かになればよい、という改革開放の呼び声がかけられてから五年近くたっていたが、未だに大連の市街はくすんでいて、荒廃の色合いが濃かった。

 たしかに高層ビルは建ちはじめていたけれど、それはまだ、街の表情を一変させるというほどではなかった。人民服の人がまだ多かった。

 ガイドによると、再開発中だというのだけれど、普請中というよりは塵芥が街角に放り出されているだけに見えた。

 戦前、日本人が四十万人、中国人も四十万人住んでいた大連は、九七年当時、人口五百三十万人となっていた。数字だけ観れば激しい膨張なのだけれど、港湾以外はそれほどの繁華という印象をうけなかった。

大連遼寧省南部に位置する。筆者が訪れた当時は、古い街並みがそのまま残っていた

 大連の中心、中山広場はアメリカ領事館以外はすべての建物が旧関東州時代のままだった。もちろん、その内実は、変化しているのだろうけれど。

 それにしても建築様式のヴァラエティはたいしたもので、ルネサンス様式から、アール・ヌーヴォーまで、西洋建築のあらゆるスタイルが集積されている。近代化の過程で西洋から吸収したものを、改めて並べて見せたようだ。

 その点からすれば、大連は未だに新開地なのだ、という印象を受けた。

 はじめロシア人たちが開き、日露戦争後、日本人が建設し、そして今また、改革開放の呼び声の下であたらしく開発されようとしている。

 百年前の新開地、五十年前の新開地、そして今日の新開地が、層をなしている光景は、どこかしらSFじみている。

 とはいえ、その地層の一部、少なからぬ部分が、日本の近代史のさまざまな事象によって形成されているという事もまた、事実だ。

石原に課せられた「満鉄」という宿題

 近代、大連の歴史は、アロー戦争(第二次阿片戦争)にはじまる。万延元年に、イギリス軍が大連湾の旅順港を一時占領した。北京条約の締結によりイギリス軍が退去した後、清国は大連の軍事的重要性を認識し、李鴻章率いる北洋艦隊の本拠地とされたが、日清戦争における日本の勝利により下関条約のもと、遼東半島全体が日本に割譲されることになった。

 この講和にドイツ、フランス、ロシアの三国が介入し、日本が半島を放棄したのは、御存知の通り。

 そうしておいてロシアは大連と旅順を租借し、軍港と強力な陣地を築いたのである。

 旅順を舞台として日本とロシアが膨大な流血を強いられ、日本が際どく勝利を収めた。

 その結果、日本は旅順、大連の租借権を継承したのみでなく、ロシアが敷設した南満州鉄道を得たのであった。

 鉄道と一言でいうけれども、満鉄はきわめて特殊である。ロシアは鉄道を敷設するにあたって、ただ線路を敷いて駅を作っただけではない。

 主要な駅に新たに都市を造るだけでなく、鉄道事業に必要な石炭、鉄鋼等の利用権まで、中国側に要求し、獲得したのである。

 日露戦争の勝利によって日本は満鉄という、きわめて価値の高い、であるからこそ厄介千万な代物を相続してしまったのである。

 その相続物を、いかに活かすか、料理するか、ということが、日本陸軍を代表する俊才である石原莞爾に課せられた宿題であった。

 石原は、蒋介石の北伐と、その帰結としての張作霖爆殺事件により燃えあがった中国ナショナリズムを前にして、いかにして日本がより高いアジアの理想を提示し得るか、考え抜いたのである。その答えが、その状況、その時にとって最良のものだったかどうかは、未だに裁き得る事ではないけれども。

 ただ彼の構想が、満州国という、新国家の建設という形をとったところに、かつてないほどの雄大な構想があった事は否定できないだろう。

 だがまた、その理想は、ごく短い間に泥にまみれてしまったのだけれども。

 林銑十郎内閣の崩壊とともに、参謀本部を追われた石原は、東條英機の下、専横を極めている関東軍と、満州国の日系官僚に再会した。満州を訪問した秩父宮に、落涙しながらその絶望を語ったという。

   ∴

 大連駅は、上野駅によく似ている。上野駅の一・五倍くらいのスケールだが、ファサードや前面の窓などのデザインは、ほぼ同じである。その未来派風のモダンさは、微妙なノスタルジーを観る者の胸に醸す。

 とはいえ、それは日本人のみの感覚かもしれない。

 南山路に今も並んでいる、満鉄の上級職員―課長、部長―向けの住宅街は、昭和三十年代の山の手を彷彿とさせた。

「大連はすでに戦後だった」と云った人がいた。

 大連では、すでに子供ひとりひとりが部屋を与えられ、食堂や暖炉のある応接間で家族が団欒するような生活があったのだ、と。

 満州を訪れた北原白秋が「雪のふる夜はたのしいペチカ」と詠んだ暮らしは、戦後になって日本で実現したのである。

 関東州庁の土木技師として「にほんばし」を設計、施工した父の膝下、大連で育った作家、清岡卓行は、はじめて日本を訪れた時、「屋根の陰気な感じに強いショックを受けた」と記している。「それは、美醜の対照ではなく、あまりにもいちじるしい明暗の対照であった」(『アカシヤの大連』)。

 日本のみすぼらしい暗さにたいして、大連の輝きは鮮やかであった。「満鉄経営の豪華なホテルがあり、ヨーロッパ人の客が多く、ほとんど砂浜だけで入江をなしていて、比較的遠浅であった星ヶ浦。そこには、テニス・コートやゴルフ場や公園なども接続していて、彼は子供心に、こんなに素晴らしい所が日本の内地にもあるだろうかと思ったものであった。

 また、その綺麗な砂浜に水着姿でしゃがんで、子供をあやしている若く美しいドイツ人の女性が、そのままの姿勢でそっと水着ごしに小用を足しているのを、中学生の彼が偶然見てしまい、へんに生生しくエロチックなそのイメージが、しばらくの間頭から消えなくて困ったこともあった」(同前)

以降 vol.4 へ。

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