2022.01.14
# 宗教 # 性 # 立ち読み

なぜ神父は結婚できないのか。宗教が「セックス」をタブー視するワケ

「性と宗教」のナゾに迫る!
浄土真宗の僧侶はなぜ結婚を許されたのか? 処女が神聖視される理由とは? まもなく刊行される『性(セックス)と宗教』(講談社現代新書、1月19日発売)の著者で宗教学者の島田裕巳氏が、それぞれの宗教における性の扱い方の違いを浮き彫りにし、人間の性の欲望と宗教の本質に迫る!

セックスとしての「性」

性ということと宗教とはどのように関係するのでしょうか。それが拙著『性(セックス)と宗教』(講談社現代新書、1月19日発売)のテーマです。この場合の性とは、文化的、社会的に作り上げられた性差としてのジェンダーを意味しません。行為を伴ったセックスとしての性です。

これに関連することですが、近年では、カトリック教会の聖職者による性的虐待が大きな問題として取り上げられるようになってきました。

神父や修道士といったカトリック教会の聖職者は独身であることを求められ、結婚し、家庭を持つことが許されません。そこが妻帯を認めるプロテスタントとの大きな、また決定的な違いでもあります。性とは切り離された生活を送ることを求められる聖職者が、密かに性的な虐待を行ってきた。これは、あまりに重大な事柄です。

にもかかわらず、カトリック教会の頂点に立つバチカンは、この問題の解決に対して必ずしも積極的であるとは言えません。それで世界中から多くの批判を浴びています。独身制に無理があるのではないか。この問題についてはそのように考えることもできます。

ただし、独身制は長い歴史を持つカトリック教会の伝統です。その制度を改めることは、教会を根本的に革新することに結びつきます。カトリック教会は、そこまでは踏み込むことができないでいるのです。

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性をめぐる宗教界のスキャンダル

ほかにも、性をめぐる宗教界のスキャンダルはいくらでもあります。新宗教の教祖の女性関係が問題とされたこともあります。フリーセックスを実践しているとして糾弾された小規模の宗教集団もありますし、教祖が信者の結婚相手を勝手に決めてしまうことが問題視されたこともありました。

その一方で、宗教においては、性を戒める戒律が存在しています。「モーセの十戒」にもありますが、仏教のもっとも基本的な戒律である五戒にも「不邪淫戒」があります。邪淫とはいったい何をさしているのか。その定義は意外に難しいのですが、邪な性関係、つまりは、婚姻関係の外側で行われる不倫が道徳に反することとして否定されているのは間違いありません。

信仰の篤い人間であれば、性に対する欲望を慎んでいるというイメージがあります。日本でも街中でカトリックの修道女の姿を見かけることがありますが、私たちは、彼女たちが禁欲的な生活を送っているに違いないと考え、尊敬の念を抱いたりもします。戒律で禁じられていることが、そのまま守られるのであれば、ことは簡単です。

しかし、そうはならないのが人間です。戒められても、性の欲望は発動します。ときには、歯止めがかからないこともあります。

一方で、性と宗教というとき、真言立川流のようなことも問題になってきます。真言立川流とは、平安時代の末期に生まれた真言宗の一派です。この宗派では、男女の交わりによって、つまりは男と女がセックスをすることで、密教が究極の目的とする即身成仏がかなうと説かれました。現代的に言えば、フリーセックスの教団だったのです。

はたしてそんなことを実践する集団が存在したのでしょうか。ただ、『性(セックス)と宗教』でも見ていくように、密教の経典のなかに、性的なエクスタシーを悟りの境地としてとらえるものがあることは事実です。

真言立川流はそれを文字通りに実践したということなのでしょうか。その可能性もありますが、そうした教団は必ずや周囲から邪教と見なされ、存続は難しくなります。実際、真言立川流は現代にまでは生き残っていません。途中で消滅してしまったのです。

このように、性と宗教ということでは、さまざまな事柄がかかわってきます。しかも、宗教によって性の扱い方は大きく異なります。すべての宗教が禁欲を説くわけではありません。『性(セックス)と宗教』で詳しく述べるように、イスラム教などはイメージと異なるかもしれませんが、むしろ禁欲と無縁な宗教なのです。

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