2022.01.02

【太平洋戦争】敬愛する隊長を「撃墜」した米軍人と対面した“元零戦搭乗員”の「胸中」

本田敏秋二飛曹と笹井醇一中尉

坂井三郎の「物語」のなかで、もっとも大きな存在が、戦死した最愛の二番機・本田敏秋二飛曹と、年下だが敬愛する分隊長・笹井醇一中尉である。坂井が平成12(2000)年9月に亡くなるまで、坂井家の応接室には神棚が置かれ、笹井中尉と本田二飛曹の写真が飾られていて、訪れた者は必ず、その神棚に手を合わせるのが習わしになっていた。

【前編】恩讐を超えて…日米の「撃墜王」が交わした「握手」

 

笹井中尉が戦死したのは、坂井がガダルカナル戦の初日、昭和17年8月7日に空戦で被弾、負傷して内地に送還された直後の8月26日――奇しくもこの日は坂井の26歳の誕生日だった――のことである。

昭和17年8月7日、ガダルカナル島上空の空戦で被弾、負傷しながらラバウル東飛行場に帰還した坂井三郎一飛曹。顔が半分隠れているが、坂井のすぐ後ろにいる髪の長い人物が笹井中尉

この日、三沢海軍航空隊と木更津海軍航空隊の一式陸攻16機が笹井中尉率いる零戦9機の掩護のもと、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場を爆撃、零戦隊はグラマンF4F 10数機と約30分間にわたって空戦、10機(うち不確実1機)を撃墜したと報告したが、指揮官・笹井中尉、結城國輔中尉、熊谷賢一三飛曹の零戦3機が未帰還となり、陸攻2機が撃墜され、被弾不時着2機、被弾9機、零戦1機が不時着、大破するという損害を出した。

笹井中尉は大正7(1918)年生まれで戦死時24歳。坂井三郎よりも2年(学年では1学年)年少にあたり、分隊長としてはいちばん若いクラスの搭乗員だったが、卓越した素質と部下の心をつかむ人間的魅力も相まって、部隊としても個人としても、これまで抜きん出た戦果を挙げ続けていた。

従軍画家としてラバウルに来ていた林唯一が、「笹井中尉B-17撃墜の図」と題した3×5メートルほどもある壁画を士官慰安所の壁面に描き、だから、ラバウルにいたことのある海軍士官で、笹井中尉の名を知らぬ者はまずいない。「特攻の生みの親」とも称される大西瀧治郎中将は母方の叔父にあたる。

坂井の著書『大空のサムライ』には、開戦直前、飛行学生を卒業して台南空に配属された笹井中尉が、ベテラン揃いの部下を率い、実戦を経るごとに強くなってゆく様子が活写されている。

昭和17年8月4日、ラバウル東飛行場で撮影された台南空の搭乗員たち。2列め左から4人め笹井醇一中尉、3列め左から7人め坂井三郎一飛曹

英国海軍を範にとった日本海軍では、海軍兵学校出身のエリート士官と下士官兵との間には、貴族と労働者に擬せられるほどの苛烈な待遇差があった。同じ部隊、同じ戦場にいても、住むところも違えば、食べるものも煙草の種類も違う。俸給の額も違う。軍隊で階級は絶対だから、どんなに未熟な士官であっても出撃のときはベテランの部下を率いる指揮官になる。坂井をふくめ、多くの下士官兵にとってそんな士官は、いわば敵機とは別の「もう一つの敵」だった。

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