ところが、自ら進んで自首してきた割には、渡辺の発言には矛盾点が多いこと、激しく追及すると返事に詰まる部分が見えたため、正力は「やはり真犯人は山田だな」と山田に逮捕状を出すことにした。
そして、山田は最初こそ「自分は農商務省高等官である。何故このような凶行を演じる必要があるのか」と否認していたが、ついには言い逃れできなくなり、犯行を認めた。
山田の命をかけた「身代わり工作」をすぐに見破った正力は、この一件により警察内でさらなる評価を高めていくことになる。後の「メディア王」正力松太郎の慧眼は若手時代から確かなものだったようだ。
米騒動
逮捕された山田は、世にも恐ろしい「鈴弁殺し」の動機・顛末をこう語ったという。
山田憲は農商務省に入省してからは外国産の米を国内へ輸入する調査を行っていた。当時(大正8年)、日本は第一次世界大戦をきっかけに米の値段が高騰。全国で米問屋による米の売り惜しみや買い占め、破格な値段での売買が横行し、主食となる米が庶民の手に入らず全国で暴動が起こっていた時代である(1918年の米騒動)。
そんな危機的状況のなか政府は「外米管理令」を公布。海外の米を大量輸入し米価を下げる政策が取られた。
農商務省の山田の仕事は、米の生産国であるインドへと出向き、インド米が果たして日本に輸入できるか、質や量、値段、そして日本人の味覚に合うのかなどの調査を行うことだったという。当然、海外産の米を知るためには日本の米事情も精通しなくてはならない。そこで「米のエキスパート」として山田が目を付けたのが、横浜で米問屋として大成功していた鈴木弁蔵だったのである。