京にあった平賀朝雅は、鎌倉から攻めのぼってきた武士たちを迎撃、戦死をとげている。
時政がひっそりと他界するのは、それから10年後の建保3年(1215)正月6日のことであった(牧の方はそのさらに1年後に死去)。

2代執権・北条義時の試練
「相州(義時)、執権の事を奉まはらしめ給ふ」(『吾妻鏡』巻18)
時政が出家した翌日、幕政のトップに登った義時は、頼朝の理想とした武府を築くべく、将軍実朝をいただきながら、幕府安定化を懸命に推進することになる。43歳。
執権義時の当面の課題は、政権内部における己れの統制力の確立であった。
「将軍別当」(執権)義時は、無住法師が『雑談集』の中であげた、「三度の難」――すなわち試練をかいくぐり、生き残り、勝ち抜かねばならなかった。
一つ目は、和田義盛との戦い。二度目が実朝の暗殺事件であった。
義盛との合戦は、手法として先の比企一族や畠山重忠の殲滅と酷似している。くり返しは省きたい。