2022.01.09

「鎌倉殿の13人」、小栗旬演じる“北条義時”は将軍殺しの黒幕なのか?

これから起こる「裏切り」の数々
加来 耕三 プロフィール

京にあった平賀朝雅は、鎌倉から攻めのぼってきた武士たちを迎撃、戦死をとげている。

時政がひっそりと他界するのは、それから10年後の建保3年(1215)正月6日のことであった(牧の方はそのさらに1年後に死去)。

北条時政/ウィキメディア・コモンズ

2代執権・北条義時の試練

「相州(義時)、執権の事を奉まはらしめ給ふ」(『吾妻鏡』巻18)

時政が出家した翌日、幕政のトップに登った義時は、頼朝の理想とした武府を築くべく、将軍実朝をいただきながら、幕府安定化を懸命に推進することになる。43歳。

執権義時の当面の課題は、政権内部における己れの統制力の確立であった。

「将軍別当」(執権)義時は、無住法師が『雑談集』の中であげた、「三度の難」――すなわち試練をかいくぐり、生き残り、勝ち抜かねばならなかった。

 

一つ目は、和田義盛との戦い。二度目が実朝の暗殺事件であった。

義盛との合戦は、手法として先の比企一族や畠山重忠の殲滅と酷似している。くり返しは省きたい。

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