まるで『カムカムエヴリバディ』の安子のように

私にはアメリカ人のいとこがいます。彼の名前はゲィリー・ランド。どこからどう見ても完璧なアメリカ人で、日本語は一言も話せません。彼の母はクニ・ランドといいます。

クニは、今年97歳になりました。私の母・ふみ子の10歳上の姉です。
彼女は、進駐軍として日本にやってきた空軍兵士のサンフォード・ランドさんと恋に落ち、海を渡りました。そして……消えてしまったのです。少なくとも、日本に残った親族からはそう見えました。一番かわいがってもらっていた末っ子のふみ子が手紙を出しても、宛先人不明で戻ってきました。アメリカはあまりにも遠く、広く、どこに行ったのかを調べることもできませんでした。
クニおばさんの消息がわかったのは、半世紀近く後、21世紀になってからでした。

現在放送中のNHKの朝ドラ『カムカムエヴリバディ』で、毎朝涙ぐんでいる人がとってもたくさんいると思います。同作は100年・三代にわたる物語と発表されており、そのパート1は戦争で最愛の夫・稔さんを亡くした安子さんが、戦後の厳しい時代を生き抜く物語です。

安子さんは、岡山で占領軍の米兵将校、ロバート・ローズウッドと出会い、稔さんとの大切な絆となった英語と、ロバートの存在が彼女の人生を大きく変えていきます。
安子さんと同じような境遇の人は、あの頃、決して少なくありませんでした。占領期に米兵と結婚し、海を渡った「戦争花嫁」は4万5000人。クニおばさんもその一人なのです。

米空軍軍楽隊the 746th Air Force Bandに所属していたサンフォード・ランドさんとクニおばさん。1948年頃、湘南の海岸で 写真提供/花房麗子
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戦後、米兵相手のスーベニールショップの売り子に

クニとふみ子の暮らしていた家は、東京・日本橋汐町(現・日本橋本町3丁目)にありました。少しばかりの土地を持っていた両親は早くに亡くなり、7人兄妹の末っ子のふみ子を母親がわりに育てたのが一番上の姉・クニでした。
昭和19年の春、戦況が切迫していく中で、9歳だったふみ子は疎開。他の兄妹は日本橋に残りました。昭和20年3月の東京大空襲で業火の中を逃げまどいながらも、日本橋の家は奇跡的に消失を逃れます。

「昭和20年の秋、疎開先から帰ってきたら、神田駅から見えるはずのない我が家が見えたんですもの。びっくりした。周りは一面の焼け野原で、我が家の1区画先はもう丸焼け。本当に運がよかったのよ」(ふみ子)

終戦直後、激しい食料不足が東京の市民を襲っていました。そこへ、焼け残った家の1階を使って米兵相手の「スーベニールショップ」をしないかという話が舞い込みます。着物、帯、草履、漆塗りの重箱や染付の器、金細工の施してある櫛……和風情緒のものならば、米兵は日本のお土産として買うだろう。戦時中まで近隣に住んでいたウエクサさんという方が、そう考えて話を持ち掛け、近隣住民から焼け残った物をかき集めたのです。皆、食べるのに必死でしたから、誰もが先祖代々伝えられてきた所縁のものでも手放しました。

「我が家は、東京で一番、最初にできたスーベニールショップだったのよ」
ふみ子はこう言います。最初かどうかは検証のしようもありませんが、たしかに流行り、おかげで一家もなんとか糊口をしのぐことができました。

そして、このスーベニールショップの売り子として白羽の矢が立ったのが、20歳になっていたクニでした。クニは街中に流れていたラジオ「カムカム英語」を聞くだけでなく、ようやく始まった青山学院大学の夜間部にも通って英語を勉強し、米兵たちの接客をしました。昼は1階で接客、夜になると2階の家で弟妹の世話をする毎日でした。