そのまま弾劾状について景時に尋ね、彼が一言も発しなかったことで罪状を決定的なものとしてしまう。
結果、景時は鎌倉を追放され、翌正治2年(1200)、一族を率いて上洛を企てたものの、駿河国清見関(現・静岡市清水区)まできたところで、討手により族滅してしまった。

その謀略は芸術的ですらあった
将軍を有名無実化するために、北条時政がしかけた言い掛り――それを将軍頼家は、読みとることができなかった。
「一の郎党ともいうべき景時をうたせるとは、なんと頼家は愚かものか」
天台座主の慈円(じえん)は、将軍頼家の思慮のなさを嘆いた記録を残したが、この2代将軍は己れの権力を支えていた大きな柱を一本、自らの手で切り倒したことに気づかなかった。
頼朝は急死したため、帝王学をわが子に伝えるひまがなかったのだろう。老練の時政と景時を左右のバランスとして据え、互いに牽制させ、己れのそばに置いてきた愛弟子・北条義時を介在させて、良き助言のみを採用し、同時に次代の俊才を幼少のわが子の補弼(ほひつ)として育成する体制を築く。頼朝はこうした準備を途中までしたまま、逝ってしまった。不運としかいいようがない。
興味深いのは、景時弾劾の66人の中に、時政と義時の父子が入っていなかったことだ。
しかし、この事件を企画・演出したのは時政に間違いなく、義時も積極的ではないにしろ、沈黙を守ることしかできなかったに違いない。
もし、時政を非難し、失脚させれば、義時もその返り血を浴びねばならない。北条家は内訌の中で弱体化し、弱肉強食の時世の中、ほかの有力御家人に乗ぜられ、消滅せざるを得なくなってしまう。
益々、専制の度合いを強めていく時政、その謀略一面、芸術的ですらあった。
権力を手中に収めた北条時政だったが、次第に暴走し、反感を買っていく。そしてついには息子・義時と袂を分かつことになる。いかにして、父子は対立しあう関係になったのか。そして2代執権・義時の誕生と暗躍について、後編〈「鎌倉殿の13人」、小栗旬演じる“北条義時”は将軍殺しの黒幕なのか?〉にて詳細に解説する。