肘掛け椅子の恋

30年後のナノワールド物語(第2話)

私たちの細胞を構成する生体分子は、想像以上に多芸多才です。

DNA(デオキシリボ核酸)は遺伝情報を担っていますが、ナノサイズの構造物をつくったり、分子どうしを結びつけるのにも使えます。また微小管というタンパク質の線維は、細胞内で物質を運ぶ足場(レール)となっている一方、ミミズのように這ったり、群れをつくったりする「分子群ロボット」にも変身させられます。そのDNAと微小管に、キネシンという「運び屋」タンパク質を組み合わせれば、パワフルで効率のいい「分子人工筋肉」さえつくれます。詳しくは本連載の第4回と第5回を参照してください。

今回は、その分子人工筋肉が発展した約30年後の未来を妄想してみました。物語形式で書いてありますので、気楽に読んでみてください。なお、この物語に出てくる人物や組織などは全て架空で、実在する人物や組織とは無関係です。また書かれている内容は全て著者の想像であり、特定の研究者や研究機関の見解や予想に基づくものではありません。

父が愛用していた肘掛け椅子の妙な行動に気づいたのは、1週間ほど前のことだった。よく晴れた日の午前11時ごろになると、必ず書斎の窓辺にぴたりと張りついて動かなくなる。そして30分ほどが過ぎると、リビングに戻ってくるのだ。雨や曇りの日に、そういうことはなかった。

ここ1月ほどの間、僕は両親が暮らしていたマンションの1室に1人で滞在している。父の一周忌が過ぎたのを期に遺品などを整理・処分して、部屋も売り払うつもりだった。仕事はリモートでこなしながら、空いた時間に何を廃棄し、何を残すか(あるいは売るか)を決めてリストアップしている。

肘掛け椅子は廃棄する品のリストに入れていた。もともとは父が亡くなった時、一緒に燃やしてしまうはずだった。通常はそうする人が多いと聞いている。しかし妹がそれをためらったため、今日までこの部屋に放置されていた。だが当の妹は、もうすっかりそんなことは忘れていて、引き取るつもりもないらしい。

僕は今、ダイニングテーブルで携帯端末を片手に仕事をしている。肘掛け椅子は、よく母が使っていたソファの隣に並んでいた。正面の壁には大型スクリーンがあって、その気になれば娯楽映画などを映すこともできる。だが今はどこかの山の景色が、リアルタイム配信されていた。壁掛け時計は午前10時を指し、窓の外には秋晴れの空が広がっている。

【写真】椅子photo by gettyimages

「コンパニオン・チェア」とも呼ばれるその椅子は、モスグリーンの植物的なデザインになっていた。雰囲気としては、籐製の椅子に似ているかもしれない。背もたれの後ろからは葉を茂らせた枝のようなものも、何本か生えていた。しかし椅子の素材の大半は「分子人工筋肉」でできている。

人間を含む脊椎動物の筋肉では「アクチンフィラメント」と「ミオシンフィラメント」というタンパク質の線維が束になるか、あるいは網目状の組織をつくっている。前者は「横紋筋」、後者は「平滑筋」と呼ばれている。いずれの場合でもミオシンフィラメントがアクチンフィラメントを引き寄せることで、筋肉は縮むらしい。

我々の体には、同様に筋肉となりうるタンパク質が、もう1組ある。「微小管」と「キネシン」だ。微小管はもともとチューブ状の線維だが、キネシンもDNAをロープのように使って束ねれば線維のような構造にできる。そしてミオシンと同じように、微小管を引き寄せることができるのだ。分子人工筋肉は、この2種類のタンパク質からつくられており、やはり横紋筋タイプと平滑筋タイプとがあった。

微小管はアクチンよりも太く、キネシンはミオシンと同等以上の力があるため、分子人工筋肉は天然の筋肉より大きなパワーを出せる。一方で柔らかく滑らかに動かせる点は同じだ。しかもエネルギー効率がよく、コンパクトにできる。

必要であればマイクロメートル(1000分の1ミリメートル)単位の大きさにもなるので、体内で働く極小の医療用ロボットなどを動かすのに最適だ。もともと細胞の中にある物質でできているから、金属や合成樹脂などを使うアクチュエーター(駆動装置)より安心でもある。

肘掛け椅子の4本の脚には、素早く正確に動く横紋筋タイプの分子人工筋肉が使われていた。犬や猫の脚と同じような関節があって、座面の水平を保ちながら音もなく滑らかに歩くことができる。階段は難しいが、ちょっとした段差なら上り下りできるし、障害物をまたぐのも問題ない。移動速度は人が歩く程度だろう。

一方で背もたれや座面のクッションは、広い範囲で柔軟に変形できる平滑筋タイプに覆われていた。これによってクッションの形状を、座る人の体型や座りかたなどに合わせて、リアルタイムに最適化できるようになっている。

これらの分子人工筋肉はむきだしではなく、様々なセンサー機能をもつメタマテリアル(人工物質)の「皮膚」で覆われていた。これによって椅子は周囲の物理的な環境を把握できるばかりでなく、座っている人の体調や心理状態なども、ある程度、感じ取れるようになっている。それに合わせて、座り心地を変えることもあった。

そのような情報処理のほとんどは、背もたれや座面、肘掛け、脚などの各パーツに分散した人工知能で行われている。その人工知能もDNAやタンパク質でできていた。

全体としてコンパニオン・チェアは、ほとんど生き物のようだった。人工光合成でエネルギーを得ているため、植物と動物の特徴をあわせ持っている。どの部分も触れば柔らかいし(だから安全だ)、天然の筋肉と同様、分子人工筋肉も多少の熱を発するので冷たくはない。そして特定の人が使えば使うほど、その人に馴染んでくるし、望むような形で動くようになってくれる。分身のような存在とも言えそうだ。

だからこそ、その持ち主が亡くなった時は、一緒に燃やされることが多い。そして僕が、まだ一度もその椅子に座ってみたことがないのも、同じ理由による。

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