「内ゲバ」に「テロ」……なぜ左翼は過激化して自滅したのか?

新宿騒乱、70年安保、渋谷暴動……
新宿騒乱、70年安保闘争、沖縄復帰運動――かつて世論から一定程度の共感を得ていた新左翼運動は、内ゲバの過激化を経て、無謀なテロに踏み切っていく。新左翼はどのようにして命脈を絶たれていったのか。
池上彰、佐藤優両氏が、過激化した左翼の失敗の歴史から「思想の力」の恐ろしさを解き明かす最新刊『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』から、徐々に先鋭化する新左翼について語った箇所を抜粋して公開します!

70年安保闘争の前哨戦

池上 第4章では1970年以降の左翼史を年表的に振り返っておきましょう。
 
すでに第3章までの内容で全共闘と民青、また全共闘の内部でも各セクト間での内ゲバが勃発していたことを紹介しましたが、70年代初頭には内ゲバがさらに過激・凄惨なものとなり、世論が新左翼を見放すようになります。

そして追い詰められた一部の党派は突破口を探そうともがくうちにかつての共産党をなぞるように無謀なテロに踏み切って失敗し、新左翼の運動は事実上命脈を絶たれることになります。知識としては広く知られているこの過程を、本書ではなるべく丁寧に見ていくことにしましょう。

さて1960年代の終わり、学生運動は東大安田講堂事件をピークとしてこの収束以後は陰りを見せ始めていましたが、一方でベトナム戦争の泥沼化により世間の反戦気運は依然として高い状況にありました。

そうしたなか左派陣営は、きたる1970年に日米安全保障条約を破棄させるための闘争を見据えていました。

1960年に締結された日米安全保障条約はその期限が10年と定められていました。その期限が過ぎた後は、日米どちらも破棄の意思を示さなければ自動的に延長されることになっていましたが、裏を返せばどちらかが1年前に相手方に通告さえすれば一方的に破棄することも可能だったのです。

そこで各党派は日本政府に米国への条約破棄通告をさせることを目指し、諸々の反戦闘争を安保にリンクさせようとしていました。

佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようとした1967年の第一次羽田闘争、1968年1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争などにしても、いずれも安保自動延長阻止のための前哨戦という意味合いがありました。

「新宿騒乱」事件の勃発

そうした闘争のひとつに、「米軍燃料タンク輸送阻止闘争」、通称「米タン阻止闘争」もありました。1967年8月8日、東京・新宿駅の構内で、在日米軍立川基地に配備されている航空機、つまりいずれ日本を飛び立ちベトナム戦争に派遣される蓋然性が高い航空機用のジェット燃料を積んだ貨物列車が他の車両に衝突し、炎上するという事故が起きました。

この事故により、日本の鉄道インフラが米軍が行っている戦争の補給線として使われている実態がクローズアップされ、平和憲法がありながらその状態を黙認している日本政府への批判も高まったのです。

そしてこの米タン阻止闘争の一環として、事故発生約1年後の1968年10月21日に中核派、ML派、第四インターナショナルなどの新左翼党派によって「新宿騒乱」事件が引き起こされました。

佐藤 この日は国際反戦デーだったのですよね。総評が米軍の北ベトナム空爆に抗議するために、事故の前年1966年の同じ日に「ベトナム反戦統一スト」を実施し、全世界の反戦団体にベトナム戦争反対への参加を呼びかけたことから始まった日でした。

池上 ええ。だから日本各地でベトナム戦争に反対する集会が開かれており、新宿でも数千人が集まってデモが行われていたのですが、中核派とML派、第四インターナショナルなどは、前年の米軍輸送タンクの事故発生現場である新宿駅で暴動を起こすことをあらかじめ計画していました。

この日は約4000人の新左翼学生が新宿駅周辺を長時間占拠してデモを行い、さらに駅構内、線路になだれ込んで線路の枕木や電車のシートを引き剝がしてバリケードを築いてホームを一時占拠したほか、さらに電車や駅舎などを片っ端から丸太や投石などで破壊し、放火したことで、新宿駅周辺は1万人以上の群衆を巻き込んでの大パニックになりました。

これに対して警視庁は、1952年の「血のメーデー事件」以来16年ぶりとなる騒擾罪(現在の騒乱罪)を適用し、364人を検挙しました。

新左翼学生たちはデモの段階からすでに「騒擾罪をはねのけて闘うぞ」とシュプレヒコールを上げており、はじめから騒擾罪になることは覚悟の上だったと見られています。

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