「人殺し」も正当化……なぜ「左翼の理想」は過激化したのか?

「左翼史の核心」としての60年代
池上彰×佐藤優

ソ連で起きた2つの事件

そして翌1956年に、日本はもちろん、世界中の左翼を動揺させる2つの大事件が起きます。

ひとつは2月にソ連共産党の党大会でフルシチョフ第一書記が、自分の前任者であり、レーニンの後継革命家として社会主義陣営で絶大な尊敬を集めていたスターリンを批判したことでした。

スターリンはレーニンが禁じていた指導者への個人崇拝を奨励し、自分の権力維持の妨げになりそうな人間には「反革命」などの濡れ衣を着せることで片っ端から粛清していました。

しかもその「粛清」の内容たるや、1935〜40年の間に154万人が逮捕され、約69万人が銃殺されていた……そうした衝撃的な事実がこのときに初めて明らかになりました。

さらに10月には、社会主義陣営に属しながら独自の自由な政治体制を模索しつつあったハンガリーに対し、ソ連が軍を差し向けて強引に制圧し、市民を殺害する「ハンガリー動乱」が起きました。

それまで日本の左翼たちが理想的な国と考えていたソ連で起きたこの2つの事件は、若い真面目なマルクス主義者にソ連やスターリンという存在についての捉え直しを強いることになります。

 

社会党と新左翼の共闘関係

やがて彼らの中からスターリンやスターリン以降のソ連、ひいてはそれらの影響を脱することができない既成左翼への批判者も現れるに至りました。

つまり表向きは社会主義を掲げながらも、その実は官僚主義や個人崇拝が蔓延している社会主義政党、あるいはそうしたものとの縁を切れない社会主義者のありようを「スターリニズム(スターリン主義)」と呼んで批判・忌避する動きが広まったのです。

スターリニズム批判は1956年以降に広まった世界的潮流ではありましたが、日本においてそのスターリニズム批判を担ったのは主に新左翼でした。

佐藤 そうした新左翼の台頭と反スターリニズム思想の盛り上がりの中で、1959年には三井鉱山が6700人もの人員整理を発表したことをきっかけに戦後最大の労働争議「三池闘争」が勃発します。

そして翌1960年には、1951年のサンフランシスコ講和条約締結時に日米間で結ばれていた旧日米安保条約を改定することに反対する勢力による「60年安保」闘争が巻き起こりました。

前巻ではこの2つの闘争で社会党と新左翼が共闘関係を結んでおり、その関係の中で社会党が新左翼を育てる「傅育器」の役割を果たしたというのが主要な論点でした。安保闘争については、本巻の第1章で改めてその意義について考えることにしましょう。

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