「人殺し」も正当化……なぜ「左翼の理想」は過激化したのか?

「左翼史の核心」としての60年代
池上彰×佐藤優

戦後の共産党・社会党の歩み

池上 共産党は戦前、非合法政党であったことから激しい弾圧を受け1928年の「三・一五事件」で徳田球一、志賀義雄らが治安維持法違反で逮捕されます。

中央常任委員だった宮本顕治も「スパイ査問事件」の主犯として捕まるなど、幹部が次々に逮捕・投獄され壊滅状態に陥り、転向を拒否した幹部のほとんどが獄中で敗戦を迎えました。

しかし日本の敗戦により連合国軍の進駐が始まり、ポツダム宣言に基づく占領政策が始まると、徳田や志賀ら獄中にいた日本共産党の幹部たちは釈放され、徳田を新書記長とした合法政党として再出発を果たします。

佐藤 そして1945年11月には戦前の無産政党、つまり合法的社会主義政党の関係者たちが大同団結して日本社会党を結成します。

集まった党員の左右の幅がきわめて広かったために社会党は何度か分裂と再統一を繰り返すのですが、社会党左派は労農派の向坂や山川を理論的支柱とし、日本で社会主義革命を実現しようと本気で考えていました。

ただそこに至るための方法論としては、ソ連でレーニンが成し遂げたような武力革命は否定する「平和革命路線」を掲げ、「非暴力」の一線は絶対に譲りませんでした。

 

共産党の「解放軍規定」

池上 一方で日本共産党も、戦後間もない時期には大衆的な支持を拡大しつつありましたが、出発点のところで致命的な間違いを犯してしまいました。指導者の徳田と志賀が府中刑務所を釈放されるにあたって、占領軍をファシズムから日本人民を解放してくれる「解放軍」であると規定してしまったことです。

この「解放軍規定」によって、占領軍の実質的主体である米軍に逆らえない立場に自らを追い込んでしまった共産党は、同党の呼びかけで国内の全産業が一斉にストライキに踏み切るはずだった「二・一スト」(1947年)の中止を占領軍が命じたときも受け入れざるを得ませんでした。

そしてこれが日本の労働運動を大幅に後退させる決断をしたとして左派全体の非難を浴びる結果になり、労働運動における主導的立場も失ってしまいました。

佐藤 「二・一スト」の失敗で「解放軍」幻想から覚めた共産党は、これでようやく本格的に革命に向かって動き出すのですが、GHQはそれを歓迎しませんでした。

池上 中国大陸では毛沢東率いる共産党が1949年に「中華人民共和国」を建国します。また、朝鮮半島でも金日成が38度線以北に社会主義国を作ろうとしていました。

こうした状況を受けて、当初は日本の民主化と非武装化を最優先としていたGHQ内部で主導権争いが勃発します。その中で「下山事件」をはじめとする不可解な事件が次々と起こり、当局はこれらが共産党の仕業と発表しました。

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