「人殺し」も正当化……なぜ「左翼の理想」は過激化したのか?

「左翼史の核心」としての60年代
過激な学生運動と内ゲバ、70年代に起きたあさま山荘事件や過激派によるテロ事件――左翼運動が最高潮に達しながら、急速な凋落を辿った60年代にいったい何があったのか。
池上彰、佐藤優両氏が、過激化した左翼の失敗の歴史から「思想の力」の恐ろしさを解き明かす最新刊『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』から、「序章」の冒頭を特別に公開します!
 

「新左翼」の登場

池上 戦前から現在までの日本左翼史を通観する目的で佐藤さんと始めたこの対談も、2巻目に突入しました。

佐藤 2020年から続くコロナ禍の影響もあり、格差や貧困がさらに拡大しました。社会の分断が深刻化しています。そして、いま私たちが直面している問題の多くは左翼が掲げてきた論点そのものなのです。

危機の時代を生き抜くために、左翼の功罪を検証し、世界の新たな展望を切り開く「左翼の思考」を取り戻さなければならない――。こうした問題意識から始めたのが今回の対談でした。

池上 シリーズの最初となる前巻では、日本の敗戦から1960年の安保闘争までを1つの区切りとし、主に日本共産党と日本社会党という戦後政治における左派の二大政党を軸に話をしてきましたね。

今巻で対象とするのは1960年から先、この2党に加えていわゆる「新左翼」が左翼史の主役の一角に躍り出る時代となります。

1950年代後半に入り、次第に問題点が露呈しつつあったソ連型社会主義への失望と、そのソ連、あるいは中国共産党の影響力から脱しきれない日本共産党や日本社会党など既存左翼政党に対する不満が高まってきました。

新左翼とは、彼らに代わってマルクス主義を正しく継承し、日本での社会主義革命を実現しうる新たな革命政党が必要だと考えた、当時の学生たちによって結成された党派の総称です。

新左翼による学生運動は1960年の安保闘争で社会・共産両党以上の存在感を示し、60年代半ば以降は彼ら自身が組織した全学共闘会議(全共闘)という運動体を通じて様々な反戦闘争や大学の自治確立のための闘争で主役となりました。

世論に見放される新左翼

彼らの問題提起は、1955年に開戦してから泥沼化の一途をたどるベトナム戦争を背景に盛り上がっていた反戦世論を追い風に、一般社会からも一定の共感を獲得します。

そしてその闘争は、1968年に東大全共闘の学生たちが東大・安田講堂に立て籠もった安田講堂事件、日大全共闘の学生たちが大学側の不祥事を追及した日大闘争でひとつのピークを迎えました。

しかし、新左翼は闘争の過程で共産党系の青年組織である民青(※1)と激しく対立し、さらには同じ新左翼どうしでありながら、主に革命の方法論をめぐってお互いに激しく憎み合うようになりました。この争いは単なる論戦では終わらず、角材(ゲバ棒)や鉄パイプで武装しては学園内外で対立党派のメンバーを襲撃する「内ゲバ」に発展しました。

なかでも、後述するように新左翼の一派である「革共同(革命的共産主義者同盟)」から分派した革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)と中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)の抗争は激しく、彼らの内ゲバは双方の陣営で数十人もの死者を出す極めて陰惨なものとなりました。

内ゲバの激化と比例するように権力側との争いも一種のテロリズムと化していき、権力側の取り締まり強化によって多数の逮捕者を出した新左翼は組織の弱体化を招きます。

そうしたなかで追い詰められた赤軍派(※2)と呼ばれる党派と、そこから派生したグループが暴発するように「よど号ハイジャック事件」「山岳ベース事件」「あさま山荘事件」「テルアビブ空港乱射事件」など日本および世界の犯罪史上に残る大事件をいくつも起こします。

これら一連の事件の衝撃によって新左翼は一般社会から完全に浮き上がってしまい、事実上命脈を絶たれることになります。

※1 民青:「日本民主青年同盟」の略称。日本共産党の指導下にある青年組織。

※2 赤軍派:共産主義者同盟赤軍派。1969年に結成された新左翼の一派。

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