特別なときに作られてきた「忠臣蔵」
「忠臣蔵」を作るということは、「自分たちは忠臣蔵を作れる力があるんだ」という誇示でもあるわけです。そのため、映画会社やテレビ局の何周年記念作品だとか、あるいは、すごく会社の調子が良いときの特別な作品として作られてきました。
たとえば東映は1950年代に時代劇映画の黄金期を迎えていますが、その最盛期の1956年に「創立五周年記念作品」として作ったのが『赤穂浪士 天の巻 地の巻』。ここから短期間で計3本オールスター忠臣蔵を作り、その力を見せつけました。
東映は、一度は映画から時代劇を撤退させますが、1978年、『柳生一族の陰謀』で一時的に復活させます。そして次の作品は『赤穂城断絶』と、忠臣蔵を持ってきます。「東映は時代劇を復活させましたよ」というアピールになったわけです。

NHKの大河ドラマもそうです。63年のスタート時はまだテレビの制作力は下に見られていました。そうした中で第一作『花の生涯』は「無謀な企画」と言われながらもやり遂げる。そして第二作となったのが、『赤穂浪士』でした。ここに映画スターの長谷川一夫を連れてきて大石内蔵助に置く。そして、新劇のトップにいた滝沢修を吉良上野介に持ってくる。
これはいままで映画界から下に見られてきたテレビ局が、遂に1年かけてオールスターの「忠臣蔵」を描けるだけの力を持った――というアピールでもあり、「NHK大河ドラマ、ここにあり」という威信を誇示する場として成り立ったわけです。