世界一周旅行をしていた頃に現地で出会った人や街の様子などを綴っている旅作家・歩りえこさんによるFRaUweb連載「世界94カ国で出会った男たち」。今回は、歩さんのルーツでもあるペルーを訪れたときのエピソードを披露。現地で出会った男性と恋が始まりそうな予感がしたそうですが、結局は成就せず……その理由は彼にあった? 一体何があったのでしょうか。

世界を旅するアクティブさは祖母譲り

先日、大好きな祖母が98歳でこの世を去った。老衰という一番幸せな亡くなり方かもしれないが、おばあちゃん子だった私は火葬が執り行われるまでの数日間、悲しくて寂しくて毎日遺体に会いに行った。祖母の肌は98歳とは思えないほど美しく、まるでまだ生きているような艶やかさだったが触ると冷たくて硬くて……ああ、本当に天国へと旅立ってしまったんだと実感して咽び泣いていた。

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明治32年に日本人によるペルーへの集団移民が始まり、祖母は大正12年に日本からの移民としてペルーで生まれた。9歳の頃に祖先の出身である広島県に移住。同じく広島で生まれ育った海軍の祖父は、旧日本海軍が建造した世界最大の戦艦「大和」に乗っていた。1945年4月7日、戦艦大和は沖縄海上特攻の途中、米艦戴機の攻撃を受けて鹿児島県で沈没したが、乗組員3332人のうち生還者は276人。その生き延びた276人のうちの1人が祖父だった。

そして、同じ年である1945年8月6日に広島で原爆が投下され、なんとその4日前である8月2日に私の父は広島市で生まれた。つまり祖父が戦艦大和に乗って懸命に戦っていた頃、祖母は父を身籠りながら祖父の帰りを待っていたことになる。奇跡的に生き延びた数カ月後に祖父母の住む広島は爆心地から半径2km以内の地域がことごとく焼失されてしまう。

戦艦大和で生還した祖父と祖母は爆心地から離れた距離にいたことで広島市にいながら、またしても生き延びた。そして、原爆投下4日前に生まれた父は被爆者一世となり、私は被爆者二世となるため被爆者二世健康手帳というものを持っており、今でも被爆者健康診断を定期的に受け続けている。

そんな歴史の渦に翻弄された祖母だったが、祖父を早くに亡くしてからは一人で海外旅行に行きまくるというアクティブ過ぎるおばちゃんだった。パックツアーを利用していたとはいえ、よくこんな頻繁に海外へ行くなと子供ながらに思っていたほど南米やヨーロッパなどを旅していた。

そのアクティブな気質が孫の私に受け継がれたのか、「私も大人になったらおばあちゃんのように世界中を旅したい」と幼い頃から漠然と思っていたのかもしれない

現在ペルーには計11件の世界遺産が存在し、マチュピチュの歴史保護区はそのなかでも最初に登録された世界遺産。写真提供/歩りえこ