フェイスブックの社名変更、なぜ「あのタイミング」だったのか…?

背後に見えるザッカーバーグの無邪気さ
池田 純一 プロフィール

彼が力説するメタバース構想を額面通り受け止めるなら、社会そのものがそのままオンラインの世界にスライドしていくことになる。だとすればメタバースだけ無法地帯でよい、というわけにはいかない。管理責任をきっちり問わなければならず、これ以上のインターネット例外主義はありえないと考えるべきだろう。Facebookで言えば30億人ものユーザーの入植を誘う世界をいつまでもワイルドウエストの論理で統治していくことはリクスが高くナンセンスである、ということだ。

となると、このメタバース実現の試みについては、現状のインターネットから次世代インターネットへの連続的な「移行」と解釈してはいけないことになる。市場としては連続ではなく「断続」である。それは1990年代後半、PC市場からインターネット市場への転換期に起こったMicrosoft訴訟のことを思い出させる。

Microsoftの創業者のビル・ゲイツ[Photo by gettyimages]
 

当時MicrosoftがPC市場の優位性をてこにして引き続きインターネット市場でも優位性を保とうとしたことに対して、反トラスト法訴訟が起こされ、結果、Microsoftの企業行動には制約がつけられた。逆に、その制約の下でGoogleやAmazon、Facebookは成長する機会を得た。メタバースが「次のインターネット」というのであれば、その断続的変化においても、同様の配慮を求める声が高まるのではないか。

Microsoft訴訟では、最終的にMicrosoftは企業分割を免れたが、その一方でインターネット市場における新規事業開発/イノベーションにおいては、我先に!というパイオニア的行動を取ることは難しくなった。同じことが、ソーシャルメディアで圧倒的地位を築いたFacebookを擁するMeta Platformsにも起こるかもしれない。

ハードウェア開発というハードル

ところでここまでは触れずに来たが、素朴な疑問としてメタバースはいつ頃実現できるのか。社名を変えてまで投資家にアピールするのなら見通しはどうしても必要だ。可能性だけなら何でも言えてしまう。

ザッカーバーグは今回の社名変更にあわせて、彼自身がナビゲータを務める長尺のビデオを公開した。そこでのメタバースは、スピルバーグが監督した映画『レディ・プレイヤー1』の世界にそっくりだった。実際、この映画は細部がよく作り込まれていてメタバースのある社会をイメージする上で参考になる場面は多い。

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