以下、笠原の推理を引用する。
「その戸塚道太郎大佐は、八月一四日から一六日の三日間にわたる渡洋爆撃が終わった後の第一連合航空隊の戦闘詳報に『往年の二〇三高地にも等しい心境をもって』作戦を指導したと述懐している。
すなわち、対米戦のための艦隊決戦即短期決戦を想定、しかも天候に左右される飛行機は戦力としての価値に劣るという海軍内の艦隊派からの批判を覆すために、被害を顧みず、悪天候下の連続渡洋爆撃をあえて強行したということである。
日露戦争において、戦死体の山を築きながら戦った『二〇三高地にも等しい心境』とは、なみたいていの決意ではなかったことがわかるが、それは当時海軍次官であった山本五十六中将から託されたものであったと想像がつく。
そう考えると、『二〇三高地』同様に大きな犠牲を出しながら渡洋爆撃を『成功』させて生還した搭乗員の報告を聞いて、山本が滂沱の涙を流した心理がわかるような気もする」(笠原十九司『海軍の日中戦争』)。
証拠はないが、蓋然性の高い説であろう。では、笠原の仮説が当たっているとして、山本は、さらにその先、無差別爆撃による敵国屈服を求めるドゥーエ的戦略まで突き進んでいたのだろうか。

検討するための3つの手がかり
これについては、史料や証言が存在しないため、状況証拠に頼るほかないが、いくつかの手がかりはある。
第一に、山本は、ミッチェル(ドゥーエほどではないにせよ、彼にも、航空機によって、敵国の政治・経済・社会的な要地を叩くべきだとの主張がみられる)に影響を受けたとみられる航空主兵論を唱えてはいるものの、非戦闘員を対象とする作戦・戦術に賛意を示した形跡はない。
第二に、当時の彼は、命令権のない海軍次官である。
第三に、軍事目標のみならず、政治経済上のそれをも攻撃する、「爆撃は必ずしも目標に直撃するを要せず、敵の人心を恐怖させるのを主眼とする」というような命令は、第一連合航空隊の上部組織である第三艦隊の司令長官長谷川清大将から出ている。