日本軍の真珠湾攻撃は「2度目」だった…日本人が知らない「もう一つの歴史」

二国の「エゴ」に挟まれたハワイの思い

触れられなかった「もう一つの視点」

「日本軍の真珠湾攻撃は、二度目の攻撃だった」――時折ハワイで聞こえてくる主張だ。

日米戦争の火蓋が切り落とされたパールハーバー(真珠湾)攻撃については、これまで日米で無数の論考がある。とりわけ攻撃の節目となる50周年、60周年、70周年などにはたくさんのパールハーバー論が出されてきた。テレビや新聞の特集も多い。80年を迎える今年もそうだろうし、10年後の90周年、そして20年後の100周年にも話題になるだろう。

ハワイの真珠湾にあるアメリカの戦没者慰霊施設「アリゾナ記念館」(筆者撮影)
 

しかし1941年12月8日(日本時間)とその前後の日米関係にばかり焦点があてられることで、忘れられてしまうことも多い。パールハーバーの記憶は、どうしても「1941年12月8日の真珠湾」という「点」に焦点が絞られがちだが、その攻撃の意義を深く理解するには、より広い時空の「面」で考える必要がある。

例えばパールハーバー攻撃は日米の話だけではない。その攻撃は太平洋の諸地域に甚大な影響を及ぼした。その日以降、アジア太平洋島嶼地域で起きたさまざまな戦闘と、それが現地の人びとにもたらした苦難の日々を忘れてはならない。パールハーバーは、グアム、香港、シンガポールの歴史など、よりグローバルな地勢図のなかで記憶すべきである。

そしてパールハーバーの攻撃の後の、ハワイに住む人びとの生活も覚えておくべきだろう。攻撃直後から戒厳令が敷かれ、住民の基本的人権が厳しく制限された。なかでも日本からハワイに渡った移民とその子供たちには、敵国の出身者として疑念の眼差しが向けられ、逮捕され長く拘禁された者もいた。

ハワイの人びとにとって、パールハーバーは日本軍による3時間の攻撃だけではなく、その後、3年近く続いた戒厳令の日々でもある。

本論ではこのような試みのひとつとして、パールハーバー攻撃の根幹にまつわる話を紹介したい。つまり、そもそもどうしてハワイにパールハーバーというアメリカの基地があるのかという基本的な問いについて、ハワイ先住民の視点から考えたい。

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