世界遺産・熊野三山の不思議な信仰。その独自性の意外な理由とは?

柳田國男も取り組んだ熊野信仰の背景
世界遺産として知られる熊野の霊場。その信仰には、容易には捉えがたい不思議なところがあると、日本の民俗研究の第一人者・新谷尚紀氏は言います。その「不思議」の背景には、一体何があるのでしょうか?
神社を通して日本古来の信仰のかたちを明らかにする新刊『神社とは何か』より、熊野信仰の正体を解き明かします。

山中の不思議な社

日本の各地の神社の中で、なかなかその正体を見定めることが困難な不思議な神社、それが熊野三山の神社である。古代からの長い歴史をもち、しかも強力な霊験力のある神仏としての独特の世界を形作ってきているのがその熊野の信仰である。

その熊野信仰の構造について読み解く上で重要なのは、その基盤に、柳田國男が『遠野物語』(1910)で発見し「山人考(やまびとこう)」(1917)や「山人外伝資料」(1913、1917)などで精力的にその情報を収集した、日本列島の先住民の子孫として山に棲み続けてきた山人たちの生業と信仰とがあるという点である。

熊野は奥深い山中の世界である。里から追われて山に棲みついた山人たちの生業と信仰とが、平城京の人びとにとってたとえば葛城山(かつらぎさん)の役行者、役小角(えんのおづぬ)のような修験の霊験の信仰を磨き上げ、里人たちを戦慄せしめたのである。

平城京の王権とその世界の者たちにとって、役小角は恐るべき山人であり異人であった。その使役する前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)は、現在でも吉野の山中の地名として残り伝えられているように、日本の鬼の原像は、里人が山に追いやったその山人たち、異人たちへの差別と恐怖と畏怖と瞻仰(せんぎょう)の対象として形象化された存在なのである。

そのような基盤的な山岳修験の信仰の上に、まずは、記紀神話が語るような古代の大和王権の天孫神話に関連する信仰が重なり、さらにその上に、神仏習合の進んだ神祇信仰と仏教教義の混淆した有力な信仰体系が形成され、そのような重層的な信仰体系が長い歴史の伝承と変遷の運動の中で、今日にまで練り上げられながら伝えられてきているのである。

したがって、それは日本の宗教のありかたの一典型例であり、神祇信仰と仏教信仰と山岳信仰の混淆体としての特徴をもっているのである。

熊野の神社はいつからあるか?

熊野の神社として記録にみえる早い例は、平安初期の延暦年間ころの社寺の封戸に関する法制書類を整理した「新抄格勅符抄」に、奈良時代の天平神護二(766)年、熊野牟須美神(くまのむすひのかみ)に四戸、熊野速玉神に四戸を充て奉るとある記事である。

そして、平安中期の「延喜式神名帳」には、紀伊国牟婁(むろ)郡の六座の内に、名神大と分類された熊野坐(くまのにます)神社、大と分類された熊野速玉神社の二社があげられている。

この熊野牟須美神、熊野坐神社がいま熊野の本宮(ほんぐう)と呼ばれている神社で、熊野速玉神、熊野速玉神社が熊野の新宮(しんぐう)と呼ばれている神社であり、この両社はともに奈良時代からの古い由緒を伝えている。

そして、これに平安中期からは、那智山(なちさん)の壮麗な那智大滝を神体として飛滝権現(ひろうごんげん)と崇拝される熊野那智大社を加えて、熊野三山、熊野三所と呼ばれ「日本第一大霊験」として信仰を集めてきている。

熊野権現

熊野三山は熊野権現ともいい、この権現という呼称は、神仏習合の本地垂迹説によるもので、日本の神々はその本地は仏であり、その垂迹が神であるという考えによる。権現とは、仮に神として仏が現れた姿だという意味である。

たとえば、熊野本宮の神は家津御子(けつみこ)大神であるが、その本地は阿弥陀如来であり、熊野速玉の神は速玉大神であるが、その本地は薬師如来だと説かれてきている。

この熊野権現の信仰に大きく関係していたと考えられるのが、吉野の大峰山(おおみねさん)や金峯山(きんぶせん)の山岳信仰と修験道の信仰であり、霊験豊かなその呪験力が説かれて広く信仰を集めていった。

熊野権現の本地仏とその垂迹神の関係についての記録の早い例は、『為房卿記』の永保元(1081)年10月5日条の「三所権現」の記事や、「内侍藤原氏施入状案」の応徳三(1086)年11月13日「抑伝承、熊野権現弥陀観音垂迹、以慈悲利益法界衆生」(『熊野那智大社文書』5)という文などである。

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