2021.12.05

「一生懸命やったことが戦後、馬鹿みたいに言われて」…“名戦闘機乗り”が最期に遺した「むなしい人生」の言葉

真珠湾の回想・第8回
神立 尚紀 プロフィール

いちばんつらい1年を過ごした

私は当然もう一度出撃するつもりで、戦闘配食のぼた餅を食いながら心の準備をしていましたが、南雲中将が第三次攻撃は中止するという。それを聞いて、正直なところホッとしました。詰めが甘いな、とは思いましたが……。無理を重ねてきた私は、そのまま祝勝会にも出ずに私室で寝込んでしまいました。それで、内地に帰ってすぐに軍医の診察を受けたら「航空神経症兼『カタール性』黄疸」、2週間の加療が必要との診断で、「赤城」分隊長の職を解かれ、広島の実家で静養することになったんです。

次に戦地に出たのは、昭和17(1942)年11月のことです。ラバウルを拠点に、ソロモン諸島のガダルカナル島やニューギニアのポートモレスビーの米軍機と戦っていた第五八二海軍航空隊の飛行隊長でした。私が休んでいる間にミッドウェー海戦で「赤城」も沈み、急激に戦況が悪化していた。

私としたら、ここでの1年間がいちばんつらかった。毎日の出撃で搭乗割(編成表)は私が書くんですが、搭乗割を書くとね、そのうちの何人かは必ず死ぬんですよ。それを決めるのは私ですから……。ソロモンの海に飛沫を上げて突っ込んだ艦爆や、空中で火の玉のようになって爆発した部下の零戦の姿はいまも忘れられません。

昭和18年、ラバウルにて。進藤氏はこの時期がいちばんつらかったと言う
 

その後、空母「龍鳳」、次いで第六五三海軍航空隊飛行長になってマリアナ沖海戦、フィリピン戦に行き、沖縄戦の頃は第二〇三海軍航空隊の飛行長として鹿児島県の笠之原基地で零戦隊を指揮、それから筑波海軍航空隊福知山派遣隊指揮官として新鋭機「紫電改」の部隊を錬成中に終戦を迎えました。

昭和18年6月16日、零戦70機、九九艦爆24機の総指揮官としてガダルカナル島に向け、ブーゲンビル島ブイン基地を発進する進藤少佐乗機の零戦二二型甲。機番号は173

二〇三空飛行長のとき、司令が「うちもそろそろ特攻を出さなきゃいかんだろうか」と言うので、「うちの隊にはいっぺんこっきりで死なせるような搭乗員は一人もおりません、なんべんも飛んで戦果を挙げてもらわなきゃならんのだから、特攻は出したくありません」と答えたことがあります。司令は「そうだな」と。司令部から何か言われていたのかもしれませんが、私の隊ではそれっきり特攻の話は出ませんでした。

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