2021.12.05

「一生懸命やったことが戦後、馬鹿みたいに言われて」…“名戦闘機乗り”が最期に遺した「むなしい人生」の言葉

真珠湾の回想・第8回
神立 尚紀 プロフィール

もはや引き返すことはできない

「赤城」が佐伯湾を出たのは、11月18日のことです。機動部隊はひとまず北へ向かい、択捉島単冠湾(えとろふとう ひとかっぷわん)に集結しました。湾の西に見える単冠山は、すでに裾まで雪に覆われていましたね。11月24日、6隻の空母の全搭乗員が「赤城」に集められ、真珠湾の全景模型を前に、米軍の状況説明と最終打ち合わせが行われた。私が手元に残していたハワイ作戦関連の軍機書類の日付は、この日から始まっています。11月26日、機動部隊は単冠湾を抜錨(ばつびょう)、ハワイに向かいました。

進藤氏が遺した真珠湾攻撃の機密書類の束。択捉島単冠湾で出撃搭乗員たちの打ち合わせが行われた11月24日から始まっている

12月8日、私は第二次発進部隊制空隊、零戦35機の指揮官でした。真珠湾に向け飛行中、クルシーのスイッチを入れたら、ホノルル放送が聞こえてきた。陽気な音楽が流れていたのが突然止まって早口の英語でワイワイ言い出したから、よくは聞き取れませんが、これは第一次の連中やってるな、と。

オアフ島北端、白波の砕けるカフク岬を望んだところで高度を6000メートルまで上げ、敵戦闘機の出現に備えます。オアフ島上空には、対空砲火の弾幕があちこちに散らばっている。それを遠くから見て、敵機だと勘違いして、接敵行動を起こしそうになりました。途中で気づいて、なんだ、煙か、と苦笑いしましたが。

昭和16年12月8日、「赤城」を発艦する進藤大尉乗機の零戦二一型。機番号はA1-102(1はローマ数字)
 

第一次に遅れること約1時間、真珠湾上空に差しかかると、湾内はすでに爆煙に覆われていました。心配した敵戦闘機の姿も見えない。空戦がなければ、地上銃撃が零戦隊の主な任務になります。私はバンクを振って(機体を左右に傾けて)、各隊ごとに散開し、それぞれの目標に向かうことを命じました。

私は「赤城」の零戦9機を率いてヒッカム飛行場に銃撃に入りましたが、敵の対空砲火はものすごかったですね。飛行場は黒煙に覆われていましたが、風上に数機のB-17爆撃機が確認でき、それを銃撃しました。高度を下げると、きな臭いにおいが鼻をつき、あまりの煙に戦果の確認も困難です。それで、銃撃を二撃で切り上げて上昇したんですが。銃撃を続行しようにも、煙で目標が視認できず、味方同士の空中衝突の危険も懸念されるほどでした。

私は、あらかじめ最終的な戦果確認を命じられていたので、高度を1000メートル以下にまで下げ、単機でふたたび真珠湾上空に戻りました。すると、立ちのぼる黒煙の間から、上甲板まで海中に没したり、横転して赤腹を見せている敵艦が見える。海が浅いので、沈没したかどうかまでは判断できないもののほうが多いんですが、それでも、噴き上がる炎や爆煙、次々に起こる誘爆のすさまじさを見れば、完膚なきまでにやっつけたことはまちがいなさそうだと思いました。

これはえらいことになってるなあ、と思いながら、胸がすくような喜びがふつふつと湧いてくる。しかしそれと同時に、ここで枕を蹴飛ばしたのはいいが、目を覚ましたアメリカが、このまま黙って降参するわけがない、という思いも胸中をよぎります。これだけ派手に攻撃を仕掛けたら、もはや引き返すことはできまい。戦争は行くところまで行くだろう、そうなれば日本は……。私は、歓喜と不安、諦観が入り交じったような妙な気分で、カエナ岬西方の集合地点に向かいました。

「赤城」に帰投すると、南雲中将が飛行甲板に降りてきて、「よくやった」と満面の笑みで私の手を握ってくれました。しかし残念なことに、いるはずの敵空母は真珠湾に在泊していなかった。艦上では、第三次発進部隊の準備が進められていました。「蒼龍」の二航戦司令官・山口多聞少将からは、「蒼龍」「飛龍」の発艦準備が完了したとの信号が送られてきます。この攻撃隊を出撃させれば、1機あたり150発しか用意できなかった零戦の20ミリ機銃弾は概ね尽きるところでした。

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