2021.12.05

「一生懸命やったことが戦後、馬鹿みたいに言われて」…“名戦闘機乗り”が最期に遺した「むなしい人生」の言葉

真珠湾の回想・第8回
神立 尚紀 プロフィール

零戦の初空戦を指揮

昭和12(1937)年8月、第二次上海事変で初めて敵機と交戦して、15(1940)年9月には、制式採用されたばかりの零戦の初空戦を私が指揮する巡り合わせになりました。それからハノイ基地に移って援蒋ルート(米英が蒋介石率いる中華民国政府を援助するためアジアに設けた輸送路)遮断作戦に従事し、それが一段落ついたらこんどは「赤城」分隊長に発令された。私は「教官不適」と言われてたもんで、つねに第一線部隊に出されていました。

昭和15年9月13日、一方的勝利に終わった重慶上空での零戦初空戦を終え、漢口基地に帰投した進藤大尉

南雲中将の話を聞いたとき、「赤城」の戦闘機飛行隊長・板谷茂少佐が、やや興奮の面持ちで、「進藤君、こりゃ、しっかりやらんといかんな」と、声をかけてきました。私も「やりましょう」と答えた。しかし解散が告げられ、基地に帰る内火艇に乗り込むときにね、板谷少佐が、「俺たちは死力を尽くして戦うだけだが、戦争の後始末はどうやってつけるつもりなのかな」とつぶやいたのを聞いて、こっちが本音なんだろうな、と思いました。

板谷少佐の海軍兵学校五十七期と私の六十期は、どちらも卒業後、遠洋航海でアメリカに行ってるんです。私は、8年前に見たアメリカを思い出しました。国土は広いし、街は立派だし、人々の暮らしは豊かだし、日本と比べてあらゆるものが進んでいる。こんな国と戦争しても勝てるはずがない。それでももし戦争になったら、我々軍人はなるべく敵に痛い目を見させて、講和条件が有利になるよう全力で戦うしかありません。

空母「赤城」。巡洋戦艦を建造中に空母に改装した大型空母で、真珠湾攻撃からミッドウェー海戦で撃沈されるまで機動部隊の旗艦をつとめた
昭和16年6月、鴨池基地にて「赤城」戦闘機隊の搭乗員たち。2列め中央・板谷茂少佐、その右が進藤大尉、板谷少佐の左は指宿正信大尉。このうち数名は、9月に新編成された第五航空戦隊の空母「翔鶴」に転勤する
 

空母搭載の飛行機隊は、洋上訓練や出撃のとき以外、陸上基地で訓練を行っていて、「赤城」戦闘機隊は、鹿児島の鴨池基地を拠点にしていました。とにかく猛訓練でしたよ。編隊同士の空戦はもちろん、洋上航法や通信、耐寒グリスを塗った20ミリ機銃による高度8000メートルでの射撃訓練……。母艦に搭載される零戦にはクルシーと呼ばれる無線誘導による帰投装置が装備されていましたが、熊本放送局の電波を使って帰投訓練も念入りにやりました。

11月3日、南雲中将より機動部隊の各艦長にハワイ作戦実施が伝達され、その日の夜半、特別集合訓練が発動、翌4日から3日間にわたって、全機全力をもって、佐伯湾を真珠湾に見立てた攻撃訓練が、作戦に定められた通りの手順で行なわれました。

私の当時のメモには〈十一月四日 「ハワイ」攻撃ヲ想定 第一次攻撃隊 〇七〇〇(注:午前七時)発進、第二次攻撃隊〇八三〇発進。十一月五日 第一次〇六〇〇、第二次〇七三〇。十一月六日 〇五〇〇ヨリ訓練開始〉と書かれています。激しい訓練で、攻撃隊の九九艦爆のなかには不時着する機も出ました。

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