2021.12.05

「一生懸命やったことが戦後、馬鹿みたいに言われて」…“名戦闘機乗り”が最期に遺した「むなしい人生」の言葉

真珠湾の回想・第8回

昭和16(1941)年12月8日、日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)の火ぶたが切られて、今年、令和3(2021)年12月8日で80年になる。

あの日、日本海軍の6隻の航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から発艦した350機(第一次発進部隊183機、第二次発進部隊167機)の攻撃隊は、アメリカ太平洋艦隊の本拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲、わずか2時間たらずの攻撃で米艦隊と航空部隊を壊滅させた。

アメリカ側は、戦艦4隻が沈没または転覆したのをはじめ19隻が大きな損害を受け、300機を超える飛行機が破壊あるいは損傷し、死者・行方不明者は2400名以上、負傷者1300名以上をかぞえた。

いっぽう、日本側の損失は飛行機29機と特殊潜航艇5隻、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名)だった。

しかし、この真珠湾の「大戦果」は、日本の開戦通告が攻撃開始時刻に間に合わなかったことから、「だまし討ち」と喧伝され、かえってアメリカの世論をひとつにまとめる結果となってしまった。

「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、一丸となったアメリカ軍はその後、驚異的な立ち直りを見せて反撃に転じ、3年9ヵ月におよんだ戦いの結果は、日本の主要都市焼尽、降伏という形で終わる。

真珠湾攻撃に参加した日本側の飛行機搭乗員は765名(途中、故障で引き返した3機や機動部隊上空哨戒、および予備員の人数はふくまず)。真珠湾で戦死した55名を含め、約8割にあたる617名がその後の激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは148名に過ぎない。そのほとんどがいまや故人となったが、ここでは、筆者の四半世紀におよぶ関係者へのインタビューをもとに、あの日、真珠湾の夜明けを見た男たちの回想を9回シリーズでお届けする。

【第1回】真珠湾攻撃は本当に「だまし討ち」だったか…当事者が語る80年前の“真実”

 

真珠湾攻撃計画が伝えられた

進藤三郎(しんどう さぶろう)
第二次発進部隊制空隊指揮官 空母「赤城」戦闘機隊(零戦) 当時海軍大尉

明治44(1911)年、横須賀に生まれ、呉で育つ。昭和7(1932)年、海軍兵学校(六十期)を卒業、飛行学生を経て戦闘機搭乗員となる。昭和12(1937)年、空母「加賀」乗組として第二次上海事変で初陣。昭和15(1940)、第十二航空隊分隊長として、採用されたばかりの零式艦上戦闘機(零戦)13機を率い、中華民国空軍の戦闘機27機を撃墜(日本側記録)、損失ゼロという一方的勝利をおさめる。昭和16(1941)、空母「赤城」分隊長として、真珠湾攻撃第二次発進部隊制空隊を指揮。その後も第一線指揮官としてラバウル、マリアナ、フィリピンを転戦。筑波海軍航空隊飛行長として福知山基地で終戦を迎えた。終戦時海軍少佐。戦後は自動車ディーラー(山口マツダ)勤務。平成12(2000)年歿。享年88
進藤三郎大尉(昭和17年11月、南方戦線へ発つ前、東京駅にて)

昭和16(1941)年10月1日頃、各航空戦隊の司令官、幕僚、空母の艦長、飛行長、飛行隊長クラスの士官が、志布志湾に停泊中の「赤城」参謀長室に集められ、ここで第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将より、「絶対他言無用」との前置きのもと、真珠湾攻撃計画が伝えられました。

「しまった。これを聞いたからには、休ませてくれとは言えないな」と観念しました。というのも、それまでの長い戦地勤務で私の体は疲れきっていて、黄疸の症状まで出てきたために、休養を申し出ようと思っていたところだったんです。

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