2021.12.02
# 戦争

旧日本軍の「お粗末な戦いぶり」に呆れた…真珠湾作戦に参加した男が語った“戦争のむなしさ”

真珠湾の回想・第5回

昭和16(1941)年12月8日、日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)の火ぶたが切られて、今年、令和3(2021)年12月8日で80年になる。

あの日、日本海軍の6隻の航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から発艦した350機(第一次発進部隊183機、第二次発進部隊167機)の攻撃隊は、アメリカ太平洋艦隊の本拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲、わずか2時間たらずの攻撃で米艦隊と航空部隊を壊滅させた。

アメリカ側は、戦艦4隻が沈没または転覆したのをはじめ19隻が大きな損害を受け、300機を超える飛行機が破壊あるいは損傷し、死者・行方不明者は2400名以上、負傷者1300名以上をかぞえた。

いっぽう、日本側の損失は飛行機29機と特殊潜航艇5隻、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名)だった。

しかし、この真珠湾の「大戦果」は、日本の開戦通告が攻撃開始時刻に間に合わなかったことから、「だまし討ち」と喧伝され、かえってアメリカの世論をひとつにまとめる結果となってしまった。

「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、一丸となったアメリカ軍はその後、驚異的な立ち直りを見せて反撃に転じ、3年9ヵ月におよんだ戦いの結果は、日本の主要都市焼尽、降伏という形で終わる。

真珠湾攻撃に参加した日本側の飛行機搭乗員は765名(途中、故障で引き返した3機や機動部隊上空哨戒、および予備員の人数はふくまず)。真珠湾で戦死した55名を含め、約8割にあたる617名がその後の激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは148名に過ぎない。そのほとんどがいまや故人となったが、ここでは、筆者の四半世紀におよぶ関係者へのインタビューをもとに、あの日、真珠湾の夜明けを見た男たちの回想を9回シリーズでお届けする。

 

戦争は人間の弱さを実感させるもの

大淵珪三(おおぶち けいぞう)
第二次発進部隊 空母「赤城」急降下爆撃隊(九九式艦上爆撃機) 当時海軍中尉

大正6(1917)年、群馬県生まれ。海軍兵学校(六十六期生)、飛行学生を経て艦上爆撃機(急降下爆撃機)偵察員となる。空母「赤城」艦爆小隊長として真珠湾攻撃に参加したのを皮切りに各地を転戦。ミッドウェー海戦後、操縦員に転換し、横須賀海軍航空隊で各種飛行実験に従事、硫黄島、フィリピン(攻撃第五飛行隊長)でも戦った。終戦時・海軍少佐。戦後、本島自柳(もとじま じりゅう)と改名。東京慈恵会医科大学を卒業して外科医となり、太田市で医療法人島門会・本島総合病院を経営、また群馬県教育委員長などを務めた。平成17(2005)年歿、享年88。
真珠湾攻撃に出撃直前の大淵珪三中尉。当時24歳

私はもともと、母の意向もあって医者になるつもりで勉強していたんですが、中学校の受け持ちの先生に、海軍兵学校の試験はタダだから腕試しに受けてみんか、と言われて、受けてみたら間違って通ったんです。だから、軍人にはなりましたが、決して「忠君愛国」のほうではなかったですね。

真珠湾作戦の計画を聞かされたときには、私なんか新米中尉の分隊士(分隊長の補佐)で作戦の中枢にいるわけではありませんから、ああ、いよいよやるのか、ずいぶん訓練やったからな、とそれだけでした。しかし、私はね、攻撃の前の晩寝るまで「引返セ」の命令があると思っていました。日米の外交交渉がうまくいったら引き返すこともあり得ると聞かされていたし、こんな簡単に大いくさを始めていいんだろうか、そういう感じは持っていましたからね。

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