2021.12.03

「社会はリベラルに運営し、個人としては保守的に生きよ」…〈21世紀の道徳〉が教えること

ベンジャミン・クリッツァー プロフィール

道徳感情とは、あくまで、限られた規模の原始的な社会のなかで進化してきたものだ。そのため、現代に発生するさまざまな道徳問題に対して、道徳感情は適切な答えを出すことができないケースも多い。

たとえば、感情では「数」を計算したり「量」を比較したりすることはできない。また、行為による結果が目に見えない状況や、結果が出るまでに長時間かかるような物事について、道徳感情はほとんど反応できない。

このため、「選挙では世の中を良くすることのできる政党に投票したいが、どこの政党を選ぶべきか?」といった判断や「弱者を助けるために、ボーナスの一部を慈善団体に寄付したいけれど、どこの団体に寄付すべきか?」という判断をする際には、感情はまったく頼りにならないのである。

〔PHOTO〕iStock
 

さらに、感情に基づいた道徳には「身内びいき」「部族主義」のバイアスが必然的に付きまとう。狩猟採集民たちにとって他の集団は「敵」でしかなく、自分たちの集団の外にいる人たちについて道徳的に配慮する必要はまったくなかったから、わたしたちの道徳感情もそうなっている。

しかし、現代では、自分が暮らしている町や国のことばかりを優先して他の町や国のことは配慮しない、というわけにはいかない。交換や貿易によって経済を活発化させて社会を豊かにするためには他集団と交流することが不可欠であるし、だれもが自分の国ばかりを優先させていたらやがて戦争が起こって、みんなが損をしてしまうだろう。

幸運なことに、わたしたちには感情だけでなく「理性」も備わっている。感情と同じく、理性も進化によって身に付けられたものではある。進化論的に考えれば、感情も理性も、骨格や内臓などと同じく、「生存と繁殖」に寄与するから存在しているはずだ(ある程度の年齢まで生き延びて、異性とセックスして子孫を残すことに寄与しない特徴は、自然淘汰によって消失してしまうはずだからである)。

しかし、感情とは異なり、理性を用いた思考とは「前提がこうであるなら、このような理由から、こうするべきだ」といった風に言語化することができる。そのために、理性は修正することができて、拡張させることもできる。したがって、理性は「生存と繁殖」や「自集団内での協力」とは異なる用途に使用することができるのだ。

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