第三者の審級の離陸(テークオフ)

「社会性の起原」96

「人間とは何か」。社会学者の大澤真幸氏がこの巨大な問いと格闘してきた連載『社会性の起原』。講談社のPR誌『本』に掲載されていましたが、85回からは場所を現代ビジネスに移し、さらに考察を重ねています(これまでの連載はこちらからご覧になれます)。

部外の観察者の立場から

現生人類は、バンド(野営集団)を下属させた重層的な部族組織を形成していたと考えられる。だが、そのような大規模な集団を実現するためには、道徳の妥当する社会的な範囲がスケールアップしていることが必要条件となる。それは、いかにして可能だったのか。これが目下の問いであった。

二人称的な関係の中での萌芽的な道徳が、どのようにして存立しえたのか、ということについては、すでに説明した。そのような道徳は、ホモ・サピエンスより前の初期人類においてすでに獲得されていたと考えられる。人間の幼い子どもにおいてすでに、こうした原初的な道徳をはっきりと超えるものが実現されている。このことを示す事実をまずは見ておこう。

われわれ人間は、社会規範を互いに強制しあって生きている。自分自身が直接には関与していない状況においても、つまり自らは部外者であるような状況においても、関係者たちに対して社会規範に従うように要求し、命令し、そして違反者に対してはサンクション(制裁)を科す。しかし、チンパンジーではこのようなことがまったく起きないことが、実験によっても確認されている。チンパンジーは、自分の食べ物が他の個体に奪われたとき、その奪った個体を「罰する」。つまり(少なくとも)優位個体は、自分の食物を奪った他個体に必ず報復する。しかし、その同じ優位個体も、食べ物が奪われたのが自分自身ではない他の個体であったときに、奪った個体を「罰する」ことはない。被害者が自分の近親者(たとえば子や兄弟姉妹)であったときでも、優位個体は略奪者を攻撃しない*1。しかし、繰り返せば、人間の場合は、自分自身が部外の観察者である場合にも、違反者を罰し、社会規範を強制しようとする。

それでは、人間は、成長のどの段階で、つまり何歳くらいの段階で、このような行動を獲得するのだろうか。それは意想外に早い。いくつかの実験は、三歳頃だという答えを提起している。三歳の子どもでさえも、直接に自分が被害者・受益者ではないような状況で、つまり観察する第三者の立場から、社会規範を強制し、違反者に抗議する。

〔PHOTO〕iStock
 

たとえばフェデリコ・ロッサーノ等は、二歳児と三歳児を被験者として、次のようなことをテストしている*2。実験者が、何か物をとりあげ、それを投げようとする。投げられる対象が誰のモノとされているか、誰が所有者かによって、子どもたちの反応がどう異なるかを調べるのが目的である。対象が、投げる行為者自身のモノなのか、被験者である子どものモノなのか、どちらでもない他人のモノなのか。

二歳児も三歳児も、自分自身のモノが巻き込まれているときには、抗議する。しかし、モノが、自分以外の(そして行為者でもない)他人の所有物であったときの反応が、二歳児と三歳児では異なる。この場合には、三歳児だけが、高い頻度で行為者に抗議する。ロッサーノ等は、三歳児は、所有権の規範的な次元を理解し始めていると結論している。誰かの所有物を、別の誰かが勝手に壊したり、使用したりしてはならない、と。

アムリシャ・ヴァイシュ等も、ほぼ同一の趣旨のことを、三歳児を対象とした実験から導き出している*3。まず、子どもと他の二人(人形に演じさせる)がひとつの部屋で、それぞれお絵描きや粘土細工で遊んでいる。やがて、子どもとともにいた二人のうちの一人R(recipient)が、部屋を立ち去る。残った一人A (actor)は、立ち去ったRの絵や粘土作品を破壊してしまう。そのときの、またその後の子どもの反応はどうであろうか。

子どもは、破壊の最中にはAに抗議し、Rがもどってくると、Rの不在中にAがなしたことをRに「告げ口」した。その後、子どもは、Rに対してより向社会的に振る舞った――つまり(Aよりも)Rと仲良くなろうとした。子どものRに対する向社会性が、AのRに向けた意地悪な行動に起因していることは、対照実験との比較から明らかである。対照実験では、やはりRが不在の間にAは破壊的に振る舞うのだが、R(の作品)に対しては危害を加えない。この場合には、子どもは、Rに対してだけとりたてて選択的に向社会性を示すようになるわけではない。つまり対照実験では、子どものAに対する選好とRに対する選好に差は出ない。したがって、もとの条件の下で、三歳の子どもは――自分自身は何の被害も受けなかったが――、Rに危害を与えることになるAの逸脱行動に憤慨していたことが分かる*4

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