「真珠湾攻撃」に参加し、太平洋戦争を最後まで生き抜いた「戦闘機乗り」の“壮絶すぎる生涯”

昭和16(1941)年12月8日、日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)の火ぶたが切られて、今年、令和3(2021)年12月8日で80年になる。

あの日、日本海軍の6隻の航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から発艦した350機(第一次発進部隊183機、第二次発進部隊167機)の攻撃隊は、アメリカ太平洋艦隊の本拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲、わずか2時間たらずの攻撃で米艦隊と航空部隊を壊滅させた。

アメリカ側は、戦艦4隻が沈没または転覆したのをはじめ19隻が大きな損害を受け、300機を超える飛行機が破壊あるいは損傷し、死者・行方不明者は2400名以上、負傷者1300名以上をかぞえた。

いっぽう、日本側の損失は飛行機29機と特殊潜航艇5隻、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名)だった。

しかし、この真珠湾の「大戦果」は、日本の開戦通告が攻撃開始時刻に間に合わなかったことから、「だまし討ち」と喧伝され、かえってアメリカの世論をひとつにまとめる結果となってしまった。

「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、一丸となったアメリカ軍はその後、驚異的な立ち直りを見せて反撃に転じ、3年9ヵ月におよんだ戦いの結果は、日本の主要都市焼尽、降伏という形で終わる。

真珠湾攻撃に参加した日本側の飛行機搭乗員は765名(途中、故障で引き返した3機や機動部隊上空哨戒、および予備員の人数はふくまず)。真珠湾で戦死した55名を含め、約8割にあたる617名がその後の激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは148名に過ぎない。そのほとんどがいまや故人となったが、ここでは、筆者の四半世紀におよぶ関係者へのインタビューをもとに、あの日、真珠湾の夜明けを見た男たちの回想を9回シリーズでお届けする。

【第1回】真珠湾攻撃は本当に「だまし討ち」だったか…当事者が語る80年前の真実

昭和16年12月8日、日本海軍機動部隊の猛襲を受けるハワイ・真珠湾の米太平洋艦隊
 

飯田大尉機は煙のなかへ消えて行った

藤田怡與藏(ふじた いよぞう)
第二次発進部隊制空隊 空母「蒼龍」戦闘機隊(零戦) 当時海軍中尉

大正6(1917)年、中国・天津生まれ。昭和10(1935)年、海軍兵学校に66期生として入校。飛行学生を経て戦闘機パイロットとなる。空母「蒼龍」戦闘機隊小隊長(中尉)として真珠湾攻撃に参加。その後、ミッドウェー海戦では味方空母の対空砲火に撃墜され、海面を漂流、九死に一生を得る。さらにソロモン、硫黄島、フィリピンなど各地を転戦、第一線の指揮官として終戦まで戦い抜いた。終戦時少佐。戦後は日本航空に入社、日本人初のボーイング747(ジャンボ)機長となり、世界の空を飛び続けた。平成18(2006)年歿。享年89。
藤田怡與藏中尉(写真は昭和17年後半、空母「飛鷹」分隊長の頃。当時大尉)

昭和16年9月1日付で、第二航空戦隊(二航戦)の空母「蒼龍」乗組を命ぜられました。あとから思えば、このとき、真珠湾攻撃のメンバーに選ばれたわけですが、当時はもちろん、そんなことは知る由もありません。母艦乗組の搭乗員は海軍航空隊の花形ですから、辞令を受け取ったときは天にも昇る気持ちでしたね。

10月のいつ頃でしたか、源田實参謀が佐伯基地に飛来して、士官を集め、ハワイ・オアフ島の米太平洋艦隊の拠点、真珠湾を攻撃する構想を明かされました。これはえらいことになったと身震いしましたね。あの大国を相手に戦って勝てる道理があるのか、と。ハワイ空襲では当然、戦死するものと覚悟を決めました。

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