2021.11.24
# 戦争

「俺は不死身だ」…真珠湾で8発被弾してもなお生還し、終戦まで生き抜いた“攻撃機乗り”がいた

真珠湾の回想・第3回

昭和16(1941)年12月8日、日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)の火ぶたが切られて、今年、令和3(2021)年12月8日で80年になる。

あの日、日本海軍の6隻の航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から発艦した350機(第一次発進部隊183機、第二次発進部隊167機)の攻撃隊は、アメリカ太平洋艦隊の本拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲、わずか2時間たらずの攻撃で米艦隊と航空部隊を壊滅させた。

アメリカ側は、戦艦4隻が沈没または転覆したのをはじめ19隻が大きな損害を受け、300機を超える飛行機が破壊あるいは損傷し、死者・行方不明者は2400名以上、負傷者1300名以上をかぞえた。

いっぽう、日本側の損失は飛行機29機と特殊潜航艇5隻、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名)だった。

しかし、この真珠湾の「大戦果」は、日本の開戦通告が攻撃開始時刻に間に合わなかったことから、「だまし討ち」と喧伝され、かえってアメリカの世論をひとつにまとめる結果となってしまった。

 

「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、一丸となったアメリカ軍はその後、驚異的な立ち直りを見せて反撃に転じ、3年9ヵ月におよんだ戦いの結果は、日本の主要都市焼尽、降伏という形で終わる。

真珠湾攻撃に参加した日本側の飛行機搭乗員は765名(途中、故障で引き返した3機や機動部隊上空哨戒、および予備員の人数はふくまず)。真珠湾で戦死した55名を含め、約8割にあたる617名がその後の激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは148名に過ぎない。そのほとんどがいまや故人となったが、ここでは、筆者の四半世紀におよぶ関係者へのインタビューをもとに、あの日、真珠湾の夜明けを見た男たちの回想を9回シリーズでお届けする。

【第1回】真珠湾攻撃は本当に「だまし討ち」だったか…当事者が語る80年前の真実

昭和16年12月8日(日本時間)、日本海軍機の雷撃を受ける真珠湾の米戦艦群。海面には波紋や雷跡が見える

「ハワイには二度と行くまい」

吉野治男(よしの はるお)
第一次発進部隊雷撃隊 空母「加賀」艦攻隊(九七式艦上攻撃機) 当時海軍一等飛行兵曹

大正9(1920)年、千葉県生まれ。昭和13(1938)年、第二期甲種予科練習生として海軍に入り、艦上攻撃機偵察員となる。空母「加賀」雷撃隊の一員として真珠湾攻撃に参加ののち、ミッドウェー、南太平洋海戦、比島沖海戦(小澤艦隊)など各地を転戦。終戦時少尉。戦後は関東配電(現・東京電力)に入社、空港反対闘争が激しかった頃の成田営業所長などをつとめた。平成23(2011)年歿。享年91。
吉野治男氏。昭和18年2月頃、豊橋基地にて

戦後、私は関東配電に入り、定年まで勤めましたが、長い間、ハワイには二度と行くまい、と思っていました。というのはね、私の後ろを飛んでいた5機、15人の仲間がそこで死んでるわけですよ。

しかし、その戦友たちがどうなったか、どのように始末されどこに葬られたか、全然わからないんです。戦争が終わってから、日本本土で撃墜された搭乗員の消息を徹底的に調査し、捕虜虐殺のかどで多くの日本人に戦犯の汚名を着せて処刑したアメリカが、こと自国に墜ちた日本の搭乗員のことに関しては戦闘機の飯田大尉(前回参照)以外、全く明らかにしないというのはどうしても腑に落ちない。

ところがいま、ハワイの海岸に行ってごらんなさい、あそこは観光地ですから、日本人がワイワイやってきて、アメリカ人も一緒くたになって遊んでるでしょう。それを見たら私なんかおかしくなっちゃう。

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