2021.11.21
# 学校・教育

いま「道徳の授業」が“面白くなっていた”…!

誤解だらけの道徳の授業観を更新する
飯田 一史 プロフィール

――現在の道徳の授業は、特定の価値観、規範意識をインプット/アウトプットするものなのか、それとも日常的に起こりうる倫理的な悩みやジレンマについて考えるものなのか、どちら寄りですか?

森岡 学習指導要領解説には「教材から読み取れる価値観を一方的に教え込んだり、登場人物の心情理解に偏った授業展開にならないように」というような記述があります。つまり目指すべきは後者寄りですね。道徳だけではなく、最近の授業は一方通行な講義型からアクティブラーニング、「主体的な学び」重視になってきており、子どもが「このテーマを考えたい」と自分から思えるものにしていくことが教師には求められています。

私見では、教師が前者寄りの「正解を教えよう」という態度で自分の価値観、考え方を押しつけたりするとおもしろくなくなります。たとえば「バスに乗ったときはお年寄りには席を譲るべきだ」などと先に言ってしまうと、子どもたちからはそれ以上何も出てこない。でも教師が「意見を引き出そう」という意識で「なんで譲ったほうがいいのかな」「自分が立てないくらい疲れているときはどうかな」などと振っていくと広がっていきます。出てきた意見を無理にひとつに集約することはしません。

[PHOTO]iStock
 

自己開示しあってお互いを深く知る時間でもある

――先ほどから何度か「自分ごと」というワードが出ていますが、それぞれが自分に関係づけて考えるということは、子どもたちの生まれや発達の多様性が、意見の多様性として反映されますか?

森岡 そうですね。たとえば教科書にパラリンピックの話が出てきたときに、父親が車椅子生活をしている子どもが自分の家庭に引きつけて放してくれたり、教科書ではないですが授業でLGBTの話をしたときに「知り合いにいたので今回の話、よくわかりました」と振り返りに書いてくれたりといったことは多々あります。

私は道徳の授業を通じてお互い自己開示をするとクラスが安定すると思っているんですね。もちろん、本人に無理のない範囲でですが、自分の経験や価値観、失敗を話し合うなかで「それもわかる」とほかの子に言ってもらえることで承認され、教室に居場所ができていく感覚がある。友だちの経験談に対して「それは違うよ」「間違ってる」と言う子はいませんから。自己開示していくことで本音をしゃべれるようになってきます。

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