恐山のイタコが放った一言に、ランボーの詩を感じた瞬間

言語の垣根を超えて働く「詩の抜け道」
伝える「内容」がなくても、何か一つの言葉さえあれば、その「音」の響きによって「詩」は成り立ってしまう——。
世界最高峰の詩人の1人、吉増剛造が60年の詩業の果てに辿り着いた境地を縦横無尽に語り尽くした現代新書の最新刊『詩とは何か』より、第4章「純粋な『音』のままで立ち上がる『詩』」を特別に公開します。

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「何ひとつ書く事はない」

さて、現代の詩で、最も多くの読者を持っていらっしゃる谷川俊太郎たにかわしゅんたろうさんという非常に大きな詩人がいらっしゃいますが、表面的にはとてもわかりやすい詩の姿をしていますけれども、谷川さんの初期の作品の中に、忘れられない「鳥羽とば」という作品があります。伊勢志摩いせしまの近くの、恐らくこれも古い万葉以前の地名でしょうね。「鳥羽」というこの表記ができるより前に「とば」という、この言い方、地名と言ってしまってはいけないような、そういう詩の光を宿しているものがあったはずで、その「鳥羽」というのはこういう詩です。

何ひとつ書く事はない
私の肉体はにさらされている
私の妻は美しい
私の子供たちは健康だ

本当の事を言おうか
詩人のふりはしてるが
私は詩人ではない

私は造られそしてここに放置されている
岩の間にほら太陽があんなに落ちて
海はかえってくら

この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変のまぶしさ!

「何ひとつ書く事はない」、第1行から驚くべきことを言っていらっしゃいます。「詩人のふりはしてるが私は詩人ではない」とまでも。ところが驚くべきことに、その「書く事がない」ことが詩になっているんですね。もうそこで「詩」が成り立ってしまっている。表面上の「意味」とは別の次元で。

そしてこの作品に詩としての深さ、輝き、力強さをもたらしたものはおそらくは、はじめに申し上げました「鳥羽とば」という「呼び名」、すなわち純粋な「言葉」の響きだったのです。それこそが詩の光なのですね、これによってもたらされたのです。例えば三連目の「岩の間にほら太陽があんなに落ちて」。これは、「とば」という詩の光の声のあらわれ、そんなふうに言うことができると思います。

伝える「内容」がなくても、この「鳥羽」のように、何か一つの言葉さえあれば、詩は成り立ってしまう、いえ、むしろ、より正確に言いますと、詩が立ち上がってしまう、始まってしまうのです。「私は造られそしてここに放置されている」という詩行には、まさしくそのような受け身の詩人、いえ、「詩人ではない詩人」への詩の突然の「立ち上がり」が示されているのではないでしょうか。少なくともそんな詩のあり方があり得るというところが小説とは異なった、詩の不思議なところであり、また、ほんとうのよい詩とは、むしろそのようなものなのだろうと思います。

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