現代最高の詩人・吉増剛造が考える「詩の本源」

杣道を辿った先に見えてくるもの
詩とは何であり、どこに存在し、どういうあらわれをしてくるのか。
世界最高峰の詩人の1人、吉増剛造が60年の詩業の果てに辿り着いた境地を縦横無尽に語り尽くした現代新書の最新刊『詩とは何か』より、「序——こわいようなタイトルのこの本に」を特別に公開します。

「詩心」について

「詩心」について

なぜ、そしてどうして、この「詩心」といわれること・・が、起こるのでしょうか?

つたないお話の仕方とは思いますが、「詩とは何か」という、こわいようなタイトルのこの本にささやかな序と言うんですか、これから、自分の声を発しつつ、訥々とつとつとですが、口跡こうせきにも耳を澄ましながら、その向こうから、あるいはそのそばから、あるいはその果ての方から、ほんの僅かに、うたうような何かが、聞こえてくるのかもしれない、ということを考えてお話をさせてください。

 

昔でしたら、たとえば中原中也なかはらちゅうやだとか宮沢賢治みやざわけんじのように、若年の天性で詩を形作ったということもあったのでしょうけれども、わたくしのような者の場合には、あるいは現代人は皆がそんなふうになってきているのかもしれませんが、貧しいながらも60年以上の歳月を費やしまして、自分の過ごした時間と意識化できなかったことを、すなわち心の「内蔵庫」のようなところに、本当に沢山にしまい込んでしまっていたものを、ようやく、いま、こうしてお話しできるようになってきています、……どうでしょうか、本当にうまく行くかどうか、いささか心許ない気もするのですが、ともかく、……と思います。 「詩の心」、「詩情」とか「詩心」とか、それから「ポエジー」あるときには「ポエム」とか、そんな言い方をしますけれども、それよりもはるかに底のほうの、「かたち」にならない、名づけがたい根源的なところにあるらしいものの、「思想」というよりも、「思いのかたまり」といったほうがよいようなもの、それの、そのはたらきのようなものをこそ、そして、そのはたらきを促す、あるいはさそう僅かな力をこそ、つかまえなければならない。

それが大戦争、敗戦、そして3.11という大災厄を経て、わたくしたちの心が自分に課している、「課している」という言い方が、たった今できましたが、そうしたある、「運命」という言葉を使うのはとても重いのですけれども、そういうところへとにじり寄っていくための、「詩」とは、細い道のひとつなのだろうと思います。

ですから、「和歌」や「俳句」やあるいは「小説」も含めて、戦前、戦後すぐまでの、「かたち」のある芸術活動とは、今や「詩」は、まったく違うものになってきています、そうひとまず申し上げておきたいと思います。

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