進化学の金字塔「進化論」 DNA時代の矛盾を解消する説とは

日本人研究者が提唱した新仮説

19世紀、進化論の誕生によって、人間の自然界における位置についての認識が確立し、この考え方を基礎に現在の人類進化学にまで発展してきました。

しかし、遺伝子の物質的本体であるDNAを直接扱う分子進化学が進んでくると、「進化論」以来の「有利な突然変異をもつ個体だけが進化の過程で生き残ってゆく」という自然淘汰の考えに矛盾する現象が多数発見されるようになりました。

「人間の進化」という考えの変遷とともに、分子時代を迎えて誕生した仮説「中立進化論」について解説します。

人間観の変遷

地球上にはさまざまな種類の生物が存在します。私たち人間も、自分自身という特別な存在ではありますが、生物の一種です。人間に似た生物であるサルがこの世界に存在することは、大昔から知られていました。古代エジプトで描かれたサルの絵が残されたり、日本でも古墳時代にニホンザルの埴輪(はにわ)がつくられました。

【写真】古代エジプトの壁画に描かれたヒヒの絵古代エジプトの壁画に描かれたヒヒの絵 photo by gettyimages

西暦2世紀のローマ帝国時代に、当時までの医学の知識を集大成したガレノスは、人間の解剖が禁じられていたため、人間に似たサルを使って解剖をしたといわれています。日本にはおそらく人間が日本列島に到達する前からニホンザルが生活していたと思われますが、猟師がいろいろな獣を殺すときにも、イノシシやタヌキと違ったいやな気持ちになって、サルを撃つのをやめることもあったそうです。

一方で、同じ人間であっても、顔かたちや皮膚の色の違いによって、まったく異なる生物ではないかと考えられたこともありました。たとえば、1492年にコロンブスが新世界に到達してから、新大陸アメリカに住む人々の存在がヨーロッパに知られましたが、彼らが人間であるかどうか、最初は議論がありました。

このように、人間と他の生物とのあいだの連続と断続については、昔からいろいろな考え方がありました。

進化論の誕生

人間観は、進化論の登場によって、それまでの見方から一変します。近代的進化論の最初は、フランスのジャン・バティスト・ラマルクが1809年に提唱したものです。しかし、人間の進化についての最初の深い洞察は、現代に続く進化学の基礎を確立したイギリスのチャールズ・ダーウィンが行ないました。

彼は生物の進化を論じた『種の起原』を1859年に発表した直後、キリスト教会から、創造神がつくりあげたものであるはずの人間の存在が、サルから進化したものであるという大転換が生じるとして、強い反発をくらいました。ダーウィンは進化論が世間に浸透してから後の1871年に『人間の由来』を著わし、人間の進化について堂々と論じました。彼は慎重ながら、ヒトがチンパンジーやゴリラと似通っていることから、人間のアフリカ起源説を唱えました。

ダーウィンと同じイギリスの生物学者トマス・ヘンリー・ハクスリーは、進化論を強く擁護し、「ダーウィンのブルドッグ」とよばれました。彼は1863年に『自然における人間の位置』と題した著書を発表し、類人猿と人間との類似性を示しました。彼の授業を聴講した若きH・G・ウェルズが大きな影響を受け、その後『タイム・マシン』というサイエンス・フィクションを書く示唆を与えられたことが知られています。

一方、ドイツのエルンスト・ヘッケルも進化の考え方を広めました。ヘッケルは、生命の系統関係を樹木になぞらえて示しました。このため、系統樹という言い方が現在では一般的となっています。オランダのデュボアはヘッケルの考え方に強い影響を受け、人類の直接の祖先は東南アジアで誕生したと考えて、インドネシアで研究をし、ついにジャワ原人の化石を発見しました。

【図】系統樹と人間の自然界における位置についての現在の認識系統樹と人間の自然界における位置についての現在の認識 illustration by saori yasutomi

現在の人類進化学は、ダーウィンやハクスレー、ヘッケルの考え方を基礎に発展してきたものだといってよいでしょう。つまり、すでに150年以上の歴史があることになります。

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