2021.11.12
# 戦争

真珠湾攻撃は本当に「だまし討ち」だったか…当事者が語る80年前の“真実”

12月8日の記憶

昭和16(1941)年12月8日、日本海軍機動部隊によるハワイ・真珠湾への奇襲攻撃で大東亜戦争(太平洋戦争)の火ぶたが切られて、今年、令和3(2021)年12月8日で80年になる。

あの日、日本海軍の6隻の航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」から発艦した350機(第一次発進部隊183機、第二次発進部隊167機)の攻撃隊は、アメリカ太平洋艦隊の本拠地、ハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲、わずか2時間たらずの攻撃で米艦隊と航空部隊を壊滅させた。

アメリカ側は、戦艦4隻が沈没または転覆したのをはじめ19隻が大きな損害を受け、300機を超える飛行機が破壊あるいは損傷し、死者・行方不明者は2400名以上、負傷者1300名以上をかぞえた。

いっぽう、日本側の損失は飛行機29機と特殊潜航艇5隻、戦死者は64名(うち飛行機搭乗員55名)だった。

しかし、この真珠湾の「大戦果」は、日本の開戦通告が攻撃開始時刻に間に合わなかったことから、「だまし討ち」と喧伝され、かえってアメリカの世論をひとつにまとめる結果となってしまった。

 

「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、一丸となったアメリカ軍はその後、驚異的な立ち直りを見せて反撃に転じ、3年9ヵ月におよんだ戦いの結果は、日本の主要都市焼尽、降伏という形で終わる。

真珠湾攻撃に参加した日本側の飛行機搭乗員は765名(途中、故障で引き返した3機や機動部隊上空哨戒、および予備員の人数はふくまず)。真珠湾で戦死した55名を含め、約8割にあたる617名がその後の激戦のなかで戦死、あるいは殉職し、生きて終戦の日を迎えたのは148名に過ぎない。そのほとんどがいまや故人となったが、ここでは、筆者の四半世紀におよぶ関係者へのインタビューをもとに、あの日、真珠湾の夜明けを見た男たちの回想を9回シリーズでお届けする。

昭和16年12月8日、日本海軍機動部隊の攻撃を受けるハワイ・真珠湾

朝日に映えた大編隊の威風を忘れず

志賀淑雄(しが よしお)
第一次発進部隊制空隊 空母「加賀」戦闘機隊(零戦)分隊長 当時海軍大尉

大正3(1914)年、東京生まれ。山口中学より海軍兵学校六十二期に進み、昭和13(1938)年、戦闘機パイロットとなる。空母「加賀」戦闘機隊分隊長(大尉)として真珠湾攻撃に参加ののち、空母「隼鷹」飛行隊長としてアリューシャン作戦、南太平洋海戦などに参加。その後、航空技術廠テストパイロットとして「紫電改」「烈風」などの新型機を手がけ、終戦時は第三四三海軍航空隊飛行長・海軍少佐。戦後は皇統護持に関わる秘密作戦に従事し、主に警察装備を扱うノーベル工業株式会社の取締役社長、会長を務める。平成17(2005)年歿。享年91。
志賀淑雄大尉。昭和14年。

静かな日曜の朝でした。

東から太陽を背にして入ったんですが、真珠湾には、真白く見えるきれいな艦(ふね)がズラッと並んでいて、ほんとうに美しかった。これを焼いていいのかな、とふと思ったぐらいです。

大分県の佐伯基地で訓練をやっていた昭和16年10月はじめ、指揮所に分隊長以上の10数名が集められ、そこで源田實・第一航空艦隊航空参謀から、真珠湾攻撃の計画を知らされました。

「近く、鳥も飛ばない北太平洋を迂回して、北からハワイ真珠湾に突入、奇襲攻撃をやる」

それまでの戦術の常識では、艦隊が陸地と一戦を構えるのは、相手は沈むことがないだけに艦隊にとっては不利で、いちばん避けなければならないことだと戒められていましたから、私は、話が終わってから源田参謀に文句を言いに行きました。

「司令部は、我々が艦隊同士で戦ったら、アメリカに敗けるとでも思ってるんですか。正々堂々、太平洋におびき出して戦えばいいじゃないですか」

すると、「余計なことを言うな」と一喝されましたね。あとで、これは大変なことになったな、と、海軍兵学校でクラスメートだった空母「蒼龍」の飯田房太大尉と話した覚えがあります。

これだけの人間が聞いてしまった以上、作戦実行まで秘密を守るのは大変だ、ほんとうにそう思いました。休暇で郷里に帰るのもこわかったですよ。

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