2021.11.18
# 戦争 # 日本

第一次上海事変 川島芳子を使った関東軍の謀略

関口宏、保阪正康のもう一度! 近現代史(3)
関口 宏, 保阪 正康 プロフィール

「戦争」と「事変」を使い分ける

関口 この事件をきっかけに1月28日、上海で日本軍と中国軍が激突する上海事変に発展します。この事変という言葉の意味はどういうことなのでしょうか。

1932年日本によって破壊された上海の街 Photo by GettyImages

保阪 戦争と区別しているんです。宣戦布告をして国家間に戦闘状態が発生するのが戦争で、そうなると国際法の決まりがあり、戦時予算や、徴兵など戦争のための国策を策定する必要も出てきます。反戦的な言論・行為を取り締まり、罰することができるようになる。そういった法的なことを含めて、軍部は「戦争」と「事変」を使い分ける計算をしていたと思います。

また日本の場合、天皇が戦争という言葉を非常に恐れ、神経質になっていたということが言えると思います。

 

関口 田中隆吉少将は戦後の東京裁判で、「満州を独立させるために上海でことを起こし、列強の目をそらしてほしい」と板垣征四郎大佐から言われ、工作資金2万円、現在の価値で1600万円相当をわたされて日中の軍事衝突を起こすよう依頼されたと証言しています。

保阪 関東軍には、そういう意図はあったと思います。

とはいえ、田中は東京裁判で検察側の証人となっているんです。日本の軍隊がいかにひどいことをしたか、自分自身のことを含めて検察側の主張に沿う形で証言しています。この証言を客観的史実として扱ってよいかどうか、私は断定できません。

関口 板垣から依頼を受けた田中は、川島芳子を使ったんですね。

溥儀の妻の婉容を天津の租界から言葉巧みに連れ出した川島芳子が、このときにも動いている。田中は川島芳子に、1万円をわたしたそうです。板垣から預かった2万円の半分を託した。川島はこのカネをもって、三友実業社に働きかけて日本人襲撃事件を起こさせたというんです。三友は抗日義勇軍を持っていましたので、使えると思ったのでしょう。

保阪 そこが田中証言のひとつのポイントです。おそらく、大きな流れとしては事実でしょうが、はたしてすべてが本当なんだろうかとクビを傾げるような部分もあります。

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