来年3月に迫る韓国大統領選、革新左派候補が有利と言える「7つの理由」

どっちにしても日韓関係改善は見込めないが

来年3月9日の韓国大統領選に出馬する与野党の公認候補が、先週11月5日に出揃った。

革新左派政党の与党「共に民主党」は、李在明(イ・ジェミョン)前京畿道(キョンギド)知事(56歳)。一方、保守右派政党の野党「国民の力」は、尹錫悦(ユン・ソクヨル)前検察総長(60歳)である。

来年5月10日に、事実上この両雄のいずれかが、第20代韓国大統領に就任することになる。ともに、国会議員を一度も経験していないという共通点があるが、政治信条も経歴も水と油だ。以下、二人がどんな人物なのか、詳細に見ていこう。

ニックネームは「戦闘型廬武鉉」

まず、李在明前京畿道知事である。李氏のことを、多くの日本メディアが「韓国のトランプ」と紹介しているが、これは李氏の政治信条から言っても経歴から言っても、ふさわしくない。あえてアメリカの政治家にたとえるなら、「韓国のバーニー・サンダース」である。李氏はあくまでも、「貧者の代表」「弱者の代表」だからだ。本人も、2017年の大統領選前にこう述べている。

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「私はストレートな物言いをするが、ドナルド・トランプのような社会的に物議を醸す暴言を吐いたことはない。自分はむしろ、成功したバーニー・サンダースのような存在になりたい。ただ理想とするのは、フランクリン・ルーズベルト大統領が推し進めたニュー・ディール政策だ」

李氏は陰暦の1964年10月23日、慶尚北道(キョンサンプクド)安東(アンドン)市に生まれた。農家の父・李ギョンヒ氏と母・具ホミョン氏の5男4女の7番目である(姉二人が早世したため5番目とされることもある)。

極貧の幼少期を過ごし、片道2時間かかる小学校へは、行ったり行かなかったりだった。夢は小学校の教師になることだった。それは教師に殴られてばかりいたので、自分が殴る側に立ちたかったからだ。

李氏が小学校を卒業した1976年、一家は首都ソウルに隣接した京機道城南市に引っ越した。父親は市の清掃員になり、母親は公衆便所の前に座る料金徴収係になった。父親は李氏を中学校に上げず、城南市上大院(サンデウォン)公団の工場に送り、少年工員にした。そのことで父親を嫌悪するようになり、その感情は後々まで続いた。

最初は塩酸と黄銅を扱うネックレス工場で、次はホウ酸を使うはんだごて工場だったが、この2番目の工場では社長が夜逃げし、給料を踏み倒された。3番目の工場ではゴム片が指に刺さり、4番目の工場ではトタンが刺さってケガをした。作業班長に殴打され、難聴にもなった。グローブ工場ではプレス機に左手首を挟まれ、手首の関節を潰した。ベンゼンとアセトンに囲まれて作業したため、嗅覚も失った。こうしたことから、身体障碍者扱いで、兵役を免除された。

工場の作業班長が高卒だったため、自分も高卒の資格を取って作業班長になろうと、工場勤務の合い間に、独学で勉強を始める。だが17歳の時に、身体障碍と鬱病に悩み、何度か自殺を図った。練炭の火に身を投げたが、火が消えて死ねなかった。再度身を投げた時は、近くにいた兄が救った。薬局で多量の睡眠薬を買い求めたが、薬剤師が自殺用と勘づいて消化剤を与えたため、やはり死ねなかった。

その後、中学卒業と高校卒業の検定試験に合格。夜には母のマッコリの商売を手伝っていたが、ある客に「お前は福耳だから成功者になる」と言われ、自信がついたと述懐している。

 

1982年、ついに中央大学法学部に合格した。工場の給料は8万ウォン(約8000円)だったが、入学金と授業料免除で、月20万ウォン(約2万円)の奨学金ももらえた。

身体障碍者のため、一般企業への就職はできないと考え、司法試験を目指す。1986年10月に司法試験合格。翌年、司法研修生時代に「高卒の弁護士」廬武鉉(ノ・ムヒョン 後の大統領)氏の講演を聴いて、感銘を受けた。そのため、釜山で弁護士事務所を開業した廬武鉉氏を見習い、成績上位者が進む判事・検事の道を歩まず、銀行から500万ウォン(約50万円)を借りて、城南市で弁護士事務所を開いた。その後、「戦闘型廬武鉉」というニックネームを気に入っている。

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