2021.11.08

江戸の「遊郭」はこんなに凄い…日本の遊女が世界から「熱視線」をあびた、驚きのワケ

江戸時代の遊郭が、じつは日本文化の基盤として重要な役割を果たしていたことは前編の「一晩で100万円…江戸時代の「売れっ子遊女」はこんなに優雅だったワケ」でお伝えした通りだ。後編ではさらに、遊郭が政治や社会にとってもいかに重要な拠点であったかをお伝えする。

花の魁、憂き世の道中

豪遊のおかげで吉原は潤い、遊郭文化は隆盛を極めていくが、絶世の美女に溺れて地位を危うくした大名も数多い。

たとえば、仙台藩の三代藩主・伊達綱宗は吉原の高尾太夫に入れ込んだが、いくら大金を投じても言いなりにならなかった。

それでも綱宗の浪費癖はやまず、幕府から21歳にして隠居を命じられた(1660年)。その後、2歳の亀千代(綱村)が家督を継いでお家騒動へと発展していく。

そんな吉原の男女模様は、江戸中期から洒落本と浮世絵によって、世の中に知れ渡っていった。

「浮世絵や錦絵には吉原の遊女が多く描かれ、今でいうアイドルやモデルの写真と同じような人気を誇りました。それを見た人々には、吉原が夢の世界に映った。江戸は日本一の観光地でしたが、男女問わず最も見に行きたい場所は、吉原だったんです」(永井氏)

江戸末期の新吉原の見取り図江戸末期の新吉原の見取り図
 

1760年代に太夫の位が消滅し、代わりに花魁が使われるようになった。「花のさきがけ」という意味だが、妹分の遊女や禿が先輩遊女を「おいらの(姉さん)」と呼んだことが語源という。

遊女が客を迎えに禿たちと通りを歩く花魁道中は、観光客にとって最大の楽しみであった。

幕府公認の遊郭でも、高尚な文化が栄えたのは、京都の島原遊郭(下京区)だ。1640年、町の発展に伴い中心街から朱雀野へと花街が移転した。その移転騒動を、直前にあった島原の乱にたとえて、島原遊郭と称された。

ここに実在したのが、有名な吉野太夫である。琴を弾き、和歌を詠み、茶を点て、碁の相手もする才能の塊であり、一度座敷で一緒に過ごしただけで「もう思い残すことはない」と自殺した男性もいたという。

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