――コミュニケーションツールが人間のあり方に影響を与えるということですね。

森山:例えば、25歳で亡くなられてしまった1989年生まれの中園孔二さんという画家がいます。8年間の間に550点以上もの作品を残したのですが、作品の雰囲気がまるで違うんです。他の人とも違うし、作品ごとに作風も違う。

制作の1週間ぐらい前に山に籠ったり、海に潜ったりして電磁波をシャットアウトしていたそうです。そして自宅の横浜に戻ってきて電磁波にまみれて描く。そうすることによって、自然とデジタルをミックスした感覚から生まれたような作品が出来上がると僕は感じています。

中園さんは結局、海に潜っている時に事故で亡くなってしまうのですが、「デジタル」という従来の社会にはなかったコミュニケーションツールの中で育った世代だからこそ生まれた精神構造や感覚、表現技法があったのではないでしょうか。同じ人間でも、コミュニケーションツールが違うと精神構造も異なるし、また表現自体も違ってくるのかもしれないと感じますね。

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身体表現と演技の相関関係

――表現技法と表現の話が出ましたが、森山さんはダンサーから出発し現在は俳優として活躍し、ダンスシーンのある『モテキ』(‘11)やボクサーを演じた『アンダードック』(‘20)では、身体表現を駆使した演技をしていますね。過去の自分が現在の自分を作っているということも映画のテーマになっていますが、ダンサーであることが俳優としての自分を作っていると感じますか。

写真:山本倫子

森山:フィジカル(身体的)な要素は役者にとっても必要なものです。ただ『アンダードック』のボクサー役のように、身体的なことに特化した役を演じるから必要だというわけでもないんです。

例えば、『ディストラクションベイビーズ』(‘16・真利子哲也監督)という映画があるのですが、チンピラ役を演じる柳楽優弥さんがこっぴどく殴られて立ち上がるシーンがあります。それを見た時、これはいわゆる「ダンサー」にはできない動きだと感じました

ダンスというと、普通はあらかじめ振付が存在して、その振付に合わせて踊ることが多いですが、柳楽さんが演じたあのシーンは、決められた振付に基づいて体を動かしたわけではないと思います。

脚本やシチュエーションの中で、柳楽さん自身が役を想定してあの動きが生まれたわけですが、その意味では、「言葉」が「身体」を作っている。また逆に、「身体」から立ち上がる「言葉」もあります

身体で表現することと言語で表現することがお互いにフィードバックする瞬間があるんです。俳優として言語で表現することと、ダンサーとして非言語で表現することの両方の機会に恵まれたのは、とても幸運なことでした。