2021.10.31
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「教育格差」が社会を分断する…いまこそ「ごちゃまぜ」な公立校が求められるワケ

教育における公正の追求はなぜ重要か
飯田 一史 プロフィール

もうひとつは、日本においては学校選択制は都市的な現象で、地方の現状にはそぐわなかった。2001年に教育委員会が実施した保護者対象のアンケートによると、品川区でさえ、学校選びでもっとも重要な要因として挙げたのは「学校の近さや通学のしやすさ」で71.4%でした。公共交通機関が発達した品川区ですら、導入した側が想定していた「学校の特色」による選択は、実際には主たる理由になっていません。

ただ、高校の学区制については全国の半分以上が全県一区になり、どこに住んでいても県内のどの高校も選べるように変わりました。結果、たとえば小中学校の学力が極めて高くて教育熱心な福井県では、県内トップの藤島高校にやりたいと思う教育熱心な層――全体のうち1割もいかない人たち――が県内各地から集った結果、従来であれば力のあった2番手3番手校の進学実績が落ちました。同様にいくつもの県で、トップ高だけが突出し、ほかは地盤沈下する現象が起こっています。

第二次世界大戦後の日本は「小学区制が望ましい」――言いかえれば「高校は地域にある。できる子もできない子も同じ学校に行くんだ」という公正重視の教育でしたが、この考えはほとんど崩れ去ったと言えます。

 

「学びの集団性・共同性」と「個別最適化された学び」

――最近では「個々人の多様性重視」という文言のもと、ICTを活用した「個別最適化された学び」が称揚されています。その流れからすると公正原理は分が悪いように感じます。「個別最適」ということは、「全体の底上げをすることが社会の底上げにつながる」「教え合うことをよしとする」思想ではないですから。

志水 「多様化」という言葉は、多義的に用いられるので注意が必要です。

僕がいいと思う多様性は「教室のなかにいろんな子がいる」ことです。同質的ではない子たちがいるなかで、お互いどう振る舞えばいいかを学ぶことができる空間です。

一方「多様な学びの場がありうる」という言い方は、違う意味の多様性を指しています。たとえば「不登校の子はむりやり元の学校に行かせず、フリースクールなり別の学びの場を提供すべきだ」といった考えです。これは「ひとつの場にいろんな人がいる方がいい」という考えとは対極にあります。

前者の意味での多様性が尊重されない状態で、後者の意味での多様性(という名の個別学習)を推し進めると、学校空間は個別指導塾のような場所になる。僕は、人間はいろんな人がいる場で揉まれ、みんなでいっしょに学んでこそまともな人間になると思っています。画面に向かってだけ学習を進めることは、おそらく一部の天才以外には有効ではありません。

「学びの共同性・集団性」と「学びの個別化」はバランスを取りながら進めた方がいい。

[PHOTO]iStock

――「ビジネスは受験勉強と違ってひとりでやるものではない。チームでお互い得意不得意を補い合い、集団として成果を出すものだ」と言われますが、それなら社会に出る前から個別最適を目指すより、異質な人間同士が協力しあうのが当たり前だという価値観になった方がいい気がしますが……。

志水 その視点は面白いですね。むしろ教育産業においては「学校は『みんないっしょ』を求めるが、社会に出れば生き馬の目を抜く個々の競争の世界だ」と強調されがちです。しかし、たしかに実際には完全に個人でやれる職業はあまりないわけであって、チームワークが必要な仕事のほうが多い。

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