2021.10.28

明治政府が「遊女たちの解放命令」を出すキッカケになった「大事件」をご存知ですか?

田中 優子 プロフィール

しかし事件は終わりませんでした。ペルーの政府が判決に異議を申し立て日本に損害賠償をさせるために、高官を派遣したのです。そこで第三国のロシア帝国による国際仲裁裁判が開催されます。国際仲裁裁判には、日本側代表として全権公使の榎本武揚が出席します。

 

「遊女」が引き合いに出された

この裁判には、船長が雇ったイギリス人弁護士ディキンズが出席しましたが、この弁護士は日本にいる中国人労働者および日本人遊女に注目したのです。

横浜には、1859年に港崎遊廓が作られていました。新吉原と長崎の丸山遊廓を手本にして作られ、遊女屋15軒、局見世(下級遊女のための時間売りの店)44軒、遊女300人、案内用の茶屋27軒がありました。港崎遊廓は1867年に現在の横浜公園の場所から吉田埋地(現羽衣町)に、さらに高島町に移転していましたが、遊廓があることは変わりません。性病の懸念もあってイギリスの海軍医師によって性病院も作られていました。

ディキンズは遊女が前借金の返済のために働く方法であり、自由意志でやめることができないこと、年季奉公契約は6〜8年であって、その間、女性を拘束するものであること、未成年が含まれていること、鞭で打ったり食べ物を与えないなどの虐待が見られることなどを挙げ、苦力への対応と同じであると言ったのです。

それに対して大江はアメリカの奴隷制を挙げながら、苦力の問題は自国の保護を受けられない他国への人身の輸出であり、遊女の問題とは異なると反論しています。この裁判で、苦力の解放が覆ることはありませんでしたが、しかしディキンズの遊女に関する見解は、明治政府に衝撃を与えたのです。

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