明治政府が「遊女たちの解放命令」を出すキッカケになった「大事件」をご存知ですか?

日本にとって「遊廓」とはなんだったのか。そして、どう語り継いでいくべきなのか——こうした問題意識にもとづき、江戸時代の遊廓の実態をつぶさに描いた『遊廓と日本人』(田中優子著、講談社現代新書)が刊行された。遊女が置かれた厳しい環境、一方でそこから生まれた絢爛な文化など、日本史の陰影の一端をご覧いただこう。

 

マリア・ルス号事件と遊廓

1867年に大政奉還となり、1868年の7月、江戸は東京と改名されました。そのことで遊廓のありかたが大きく変わったかといえば、そういうことはありませんでした。まだこのころはほとんど同じ日常が、吉原には展開していたのです。

ひとつ変わったことがあったとすれば、吉原は江戸で唯一の公認の遊廓だったのですが、1869(明治2)年、根津遊廓も公認となり、東京に二つの公認の遊廓ができたことでしょう。根津遊廓は幕末に建設が進められ、公認されてからは1870(明治3)年に、根津八重垣町に桜200株余りを植え、総門をかまえ、まるで新吉原のようになったのです。むろん明治以降は、これを公認としたのはもはや幕府ではなく明治政府でした。

しかし年限を限って許可された遊廓でしたので、約20年後の1888(明治21)年6月末日には撤去され、洲崎に移転させられたのです。これが洲崎遊廓でした。

東京には、新吉原、根津(洲崎)の他に、品川、新宿、千住、板橋に「岡場所」と呼ばれる非公認の遊廓が江戸時代と変わらずあり、都心を離れると調布、府中、八王子などの宿場にも非公認の遊廓がありました。

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