2021.10.27

道徳の不可解な両義性

「社会性の起原」95

「人間とは何か」。社会学者の大澤真幸氏がこの巨大な問いと格闘してきた連載『社会性の起原』。講談社のPR誌『本』に掲載されていましたが、85回からは場所を現代ビジネスに移し、さらに考察を重ねています(これまでの連載はこちらからご覧になれます)。

「醜いアヒルの子の定理」

初期人類が採用した協同の狩猟採集という戦略は、進化の観点から見て、非常に成功した。そのことが原因になって――前々回述べたように――、現生人類の群れは大規模な部族組織にまで発展した。部族組織のサイズは、直接的に協力しあっている二人称の他者の範囲をはるかに超えている。部族組織の中では、メンバーたちは、互いのことを個人的には知らない。このような部族組織が成り立つためには、道徳のヴァージョンアップが必要だ。つまり、互いのことをよく知らない個人たちをも含む大きな集合に対しても効力を保つ道徳が必要になる。

そのような道徳は、いかにして可能になるのか。「間身体的連鎖」に対する機能的代替物が必要になる。初期の道徳は、間身体的連鎖をベースにして存立する第三者の審級を通して成立する。間身体的連鎖は、二人称的な自他関係の中で、つまり直接的な相互接触や直接的な相互知覚が可能な身体たちの間で生成される。道徳のスケールアップのためには、間身体的連鎖の代わりになるもの、しかも直接的な接触の範囲を超えた身体たちの間でも作用しうる契機が必要になる。それは何か。

前回、われわれは先行の諸説をもとに、それは、自他の間の類似性ではないか、という仮説を検討した。が、類似性によっては、道徳のスケールアップは説明できない。なぜなら、類似性は原因ではなく、結果(の一部)だからだ。

確かに、前回紹介したいくつもの実験が示しているように、自他の間の類似性は、道徳現象に関連している。たとえば、人は、自分と似た性質をもった他者を、道徳的により好ましいと見なす傾向がある。しかし、そうなるのは、道徳をめぐる認知や判断が、類似性についての認知に規定されているからではない。「私たちは似ている」「私たちは同じようである」という認知は、拡大された道徳的共同体の形成とともに、その随伴物として生み出されている。両者の間に相関関係はあるが、前者が後者の原因ではない。

このことは、自己と他者との間の類似性が、まさに同じ集団のメンバーであるということ以外にはまったくないようなケースにおいても、なお人間は、内集団のメンバーを選好し、内集団のメンバーに対して――外集団のメンバーに対してよりも――利他的にふるまおうとする、ということを示す実験結果から証明される。このケースでは、内集団を道徳的に選好する外的な独立要因として、「類似性」を想定することができない。

ここは、理論物理学者の渡辺さとしがかつて証明した定理、「醜いアヒルの子の定理」を思い起こしてもよい文脈であろう。この定理によれば、類似性の程度は、実在についての客観的な性質ではなく、主観的な価値判断によって媒介されない限り決定できない。要するに、類似性という性質は、(客観的には)実在しない*1。目下のわれわれの課題と対応させれば、「自己と他者とが(客観的に)似ていることが原因となって……」という説明は不可能であって、自己と他者とを包摂する道徳的な集団が形成されてはじめて、「両者が似ている」という状態が主観的に構成されることになる。
自他の間の類似性が原因ではなく結果(の一部)であるとすれば、類似性が生成される過程を問わなくてはならない。前回、ここまで述べておいた。類似性をもたらしているのは、同調的な模倣である。

〔PHOTO〕iStock
 

「裸の王様」のような状況

他者(同種の他個体)の行動や態度を模倣することを好むこと、そして模倣が巧みであること。本連載のなかですでに繰り返し述べてきたように、これらは、人間のずばぬけた特徴である。チンパンジーを含む大型類人猿は、しばしば驚異的な認知能力を発揮するが、模倣に関しては、人間とまったく異なっている。チンパンジーは、模倣が苦手である。そもそも、彼らには、人間とは違って、正確に模倣すること、同調することへの執着がない。他の認知能力に関しては、人間とチンパンジーの違いは、程度の問題に過ぎないが、模倣に関連する能力については、「質的」と見なしてよい圧倒的な違いがある。

模倣に関連する経験的な事実や実験については、この連載の中ですでにいくつも紹介してきたので、ここでは、概要だけ再確認しておこう。

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