憲法学者は間違えている…“敵基地攻撃能力の保持”は「違憲」ではないといえる理由

必要な防衛能力を備えるべき

北朝鮮のミサイル能力の向上に伴い、いわゆる敵基地攻撃能力の保持が、国会等で議論されている。岸田首相は、従来保持していなかった能力の保持に前向きな姿勢だ。

是非とも積極的にやってもらいたい。北朝鮮は可動式ミサイルの発射能力を持っており、厳密な意味での「基地」ではない施設からミサイルを発射できる。言葉尻にとらわれずに、必要な防衛能力を備えていくべきだ。

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「敵基地攻撃能力」という概念は、極めて日本的なものだ。これが問題だとされるようになった背景には、日本の憲法学通説の奇妙な「自衛権」解釈の問題がある。はっきり言おう。日本の防衛政策は、憲法学者らによって、長期に渡って捻じ曲げられてきた。国際政治学や国際法だけでなく、現実の国際社会の動向を無視することにイデオギー的快感を覚えていた憲法学者らによって、惑わされてきた。

これは本来の日本国憲法を遵守する精神とは関係がない。むしろ憲法を真面目に解釈するかどうかの問題である。

護憲派とか平和主義とかリベラルとかの立ち位置の問題とも関係がない。憲法学者のイデオロギー的主張に盲目的に奴隷のように付き従うかどうかだけの問題である。

 

ありえない滑稽な議論の構図

かつて「敵基地攻撃能力」の保持に「違憲」の疑いがある、といった議論が投げかけられたのは、「専守防衛」という国是のためである。この「専守防衛」論それ自体は、内容が曖昧模糊とした国内政治で用いられているスローガンでしかない。

「守りに専心する防衛」という意味を強調しているのだが、本来は「防衛」は「守る」ことなので、漢字を4つ並べても、同じ意味の内容が繰り返されているだけである。一言でサラっと言わず、こぶしを握って手を振り回して大声で主張する、という感じだが、言っていることの内容は「防衛」に「専守」を付け加えたからといって変更になるものがあるようには見えない。

ただし大声で主張することにこそ意味がある、と考える憲法学者らイデオロギー勢力があることも事実である。日本国外には守りに専心していない防衛があるので、日本では守りに専心する防衛を行うべきだ、という具合である。

このあたりの言葉遊びのレベルになると、憲法論で対応するのは不可能である。ほんの数行の憲法9条の文言だけで、こうした議論が成立すると考えること自体が、破綻している。

防衛とは守りに専心することだとして、その「守り」にはいろいろな方法がある。そもそも軍事的な方法だけでなく、外交その他の方法もある、といって差し支えない。軍事的な方法を使う場合、攻撃してくる武力攻撃の主体に対抗するのが「守り」になる。したがって重大な問題は、相手が攻撃をしてきているかどうかであり、敵基地を攻撃する方法を憲法学者が気に入ってくれるかどうかではない。

日本を攻撃している敵の攻撃能力を削ぐ行動が「守り」ではないとしたら、いったい何が「守り」なのか。

日本政府が独自の判断で、日本は敵の領土内の軍事施設を防衛行動であっても攻撃しない、という立場をとるのは、政治的裁量としては可能ではあるだろう。だがそれは法律論ではない。イデオロギー的事情を汲んだうえでの政策的領域の政治判断である。

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