人間が飲める酒量に限界はあるか? 幕末を生きた桁外れな酒豪たち

「五斗先生」に匹敵する大酒飲みとは
七升飲んだ翌日の二日酔いに五升の迎え酒、放蕩児の心を打った大酒飲みの断酒の誓い――。山内容堂、藤田東湖、山岡鉄舟。歴史に名を残した3人の酒豪は、一体どれほど酒を愛し、何を語り合ったのか。
幕末維新史の知られざるキーパーソン、土佐藩の名君・山内容堂に焦点を当てながら、歴史の転換点の実相を描き出した最新刊『酔鯨 山内容堂の軌跡 土佐から見た幕末史』の著者・家近良樹氏が、桁外れな幕末の酒豪たちについて語ります。
 

人間が飲める酒量に限界はあるか

私が、長年、歴史を勉強していて、頭の片隅になんとなくあった疑問の一つに、人間は、その気になれば、いったいどれぐらいの量の酒を、おのれの身体に受け入れられるのだろうかというのがあった。もっとも、こうした疑問は、まったくもって「遊び心」から発したものなので、これまで真剣に取り組んだことなど、むろん無かった。

が、山内容堂を相手に調べものをしていて、たまたま「五斗先生」なる言葉に出会った。これは、容堂がみずから称した号の一つである。容堂に関しては、「鯨海酔侯」の方が世間的にはいまだ知られていようが、こうした号も彼にはある。

五斗とは、一升の50倍だ。すると、容堂は、「俺は五斗が飲みほせる男だ」と自慢したくて、こうした号を称したと思われる。とうてい信じられない酒量だが、容堂が京都に上る途上で詠んだ漢詩中に、寒風から身を守るために、舟中で飲酒したものの酔えないので、大坂から伏見に至るまでに「五斗」の酒を飲んだとある。

このようにハッキリと「五斗」と明記されている以上、舟中で、酒好きの家臣を相手に、時間をかけて「一斗樽」五つを飲み盡したということは、ありえるかもしれないなと受けとめた。

なお、蛇足を承知で記すと、容堂が最も好んだ日本酒は、当時、灘や西宮あたりの酒とともに、「下り酒」と呼ばれた本場の酒の一つ、伊丹の酒(2度目の生産ピークを迎え、江戸で「丹醸」の名で好まれた)で、とくに贔屓にした銘柄は剣菱であった。

剣菱をとくに贔屓にしたのには、当時贈り物に使われるほどの上級酒だったことに加え、敬愛する大酒飲みの頼山陽が「剣菱を愛飲して、それを礼賛する詩を残し、その醸造元が門弟になっているほど」(奥田晴樹『幕末政治と開国』)だったことも少なからず関係したことであろう。

さらに書き足すと、容堂は、安政3・4年(1856・57)の時点で作った漢詩(『容堂公遺稿』)によると、「南京」製のガラスの徳利から、「西洋」製の「巨杯」になみなみと伊丹酒をつぎ、それを飲み干すのを好んだらしい。攘夷論者が圧倒的多数を占めるなか、この時点で、すでに気分は世界人だったのである。

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