「自己教育力」が生み出すもの

花の森のウェブサイトには、「自己教育力」という単語も出てきます。これはモンテッソーリ教育の核となる概念でもあります。モンテッソーリ教育の影響も受けているのでしょうか。

「あの言葉はもともとの園の理念から引き継ぎましたが、モンテッソーリ教育とは関係ありません」とのことですが、モンテッソーリ教育の理論を借用して、森のようちえんで起きていることを説明できます。やってみましょう。

「自己教育力」とは、子どもの中には自分自身を教育するためのプログラムが予
あらかじめインストールされているということです。それが自動的に展開して「遊び」という形で適切な時期に表れる。その時期を「敏感期」といいます。
 
モンテッソーリ教育ではさまざまな遊びの欲求を満たす「教具」を何百種類とそろえて教室に用意しておきます。敏感期が訪れると、それにぴったりの教具を子ども自らが本能的に選んで遊び始めます。

敏感期に適切な遊びが与えられると、子どもはその世界に没頭できます。それを「集中現象」と呼びます。スポーツ選手が「ゾーンに入る」というのと同じです。

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森の中では、人間の大人がわざわざ用意しなくても、子どもの発達の各段階にぴったりの遊び道具が必ず見つかります。たとえば無性に泥んこ遊びをしたがるときは、泥という概念を、自分の肌、目、耳、鼻、舌までをも通じて多角的な情報としてインプットし、脳に刻み込みます。十分な情報量がインプットされると、その遊びをやめて別の遊びを始めます。
 
ただし、モンテッソーリの教具と森の中にある自然の”教具”には決定的な違いがあります。モンテッソーリの教具には「正しいやり方」が決められているのに対して、森の自然物をどのように扱うかは子どもたちが決めるということです。それでも森のようちえんでは、集中現象の発現がいたるところで見られます。

撮影/おおたとしまさ

グローバルな競争の”勝ち組”になるより大事なこと

地球環境に住まわせてもらっているいち生物としての自覚が、大人になったときの共感性の高い生き方の土台になると、葭田さんは考えています。
 
その土台ができる前に、英語やプログラミングをやらせて何になるというのか、ひとと競わせてどんないいことがあるというのか、何かができる・できないでジャッジしてその子の人生が豊かになるのか……。そんな憤りが、花の森を立ち上げる原動力でした。
 
時代は急速に変化しているんだから、教育も変わらなきゃいけないというひとがいます。でも考えてみてください。人間の本質なんて、何万年も変わっていないでしょう。

たとえば、科学技術が進歩して、戦争に使われる武器や兵器は昔では考えられないほどの威力をもつようになりましたし、それらを使いこなすには高度な知識と技術が必要になったわけですが、戦争を起こしてしまう人間の愚かさは、原始時代に部族間闘争をしていたころから何も変わっていないんです。
 
グローバル経済を舞台にした貿易競争だって金融競争だって同じです。競争をくり返す限り、永遠に敗者が生み出されます。自己責任の名の下に敗者が排除されていく社会で最後に残るのは、孤独な勝者です。そのときようやく彼または彼女は気づくのでしょうか、「あっ、しまった。ひとりでは生きていけないんだった」と。
 
最新技術の使い方は、大学での学問や社会での就業経験のなかで学べば十分間に合うはずです。どうせこれからは一生新しいことを学び続けなければならないのですから。

ルポ森のようちえん
教育ジャーナリストのおおたとしまささんが「森のようちえん」の現場を取材。ヨーロッパの「森の幼稚園」との違い、モンテッソーリやシュタイナーとの共通点、非認知能力を引き出す自然のマジック、幼児教育・保育無償化制度の罪、都市部でもできる「森のようちえん」……様々な視点から新しいムーブメントを取材・検証し、魅力と課題を明らかにしている。集英社新書