「教育」とは大人が「教えて育てる」ことではない

以上、嘉成さん。

「個体発生は系統発生をくり返す」ということばがあります。胎児が母親のおなかの中で、あたかも生命の進化をなぞるように成長する様子を表現しています。生まれ出てからも進化は続きます。原始時代から現代に至るまでの人類の進化です。
 
幼児期は原始人です。嘉成さんの話に加えるならば、子どもたちはドングリが好きですよね。意味もなく拾います。これも人類に刻み込まれた本能ではないかと私は思います。ドングリがあるということは、その周辺にリスがいて鳥がいてカブトムシがいて、豊かな生態系があることのサインです。
 
ドングリを見つけると「ここなら生きていける」という安心感を得るように、私たち現代人のなかの原始人が記憶しているのではないでしょうか。子どもたちが、昆虫のなかでも特にカブトムシを見つけたときに喜ぶのも、同じ理由ではないかと私は思います。

撮影/おおたとしまさ
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小学生になると文字や数字が使えるようになります。これ、古代人の段階ですよね。中高生になると、世の中に対するさまざまな疑問を、論理の力で解き明かしていきます。それが中世から近代にあたります。

その先に、ようやく現代人としてのスタートラインに立ちます。人類未到の知恵や知識を探究するのが大学での学問です。あるいは社会に出て、21世紀の社会という環境から糧を得る方法を考えたりするのです。

近代教育思想の源流とされるルソーも、『森の生活』の思想家ソローも、人間の成長には人類史の追体験が必要だと述べています。そう考えると、子どもの発達段階の各時期に、何を優先すべきなのかがはっきりするのではないでしょうか。
 
また、「教育によって人間が形成されるのではなくて、この子の中にあるものに合ったところに初めて教育というものが成立する」は、けだし名言です。

「教育」という言葉はしばしば「教えて育てる」と読み下されます。しかし本当は、教えたい力と育ちたい力がタイミング良く手を結んだところに生じる営みを「教育」というのではないでしょうか(図1)

『ルポ森のようちえん』より

森のようちえんの子どもたちを見ていれば疑いなくわかるように、子どもたちは常に育ちたい力の触手をいろんな方向に伸ばしています。それに気づいてあげられる大人がどれだけいるか、伸びてきた育ちたい力にぴったりの教えたい力をもっている大人がどれだけいるか、それがその子の置かれた教育環境の豊かさになるのだと思います。

ですから、教えたい力で無理矢理子どもを引っ張ってもうまくいきません。せっかく育ちたい力が触手を伸ばしていても、ちょうどいい教えたい力で応えてやることができなければ「教育」には至りません。

現代の子育てが困難になっているのは、自然や文化の力を十分に借りることができず、むしろ人間の意図の中だけで子育てをしようとしているからではないでしょうか。その時点でおこがましいし、無理がある。100%自分の意図と力でなんとか育てなきゃと思うから、責任も重く感じてしまうし、それが転じて、子どもにも重荷になってしまう。

人間がつくりだしたもののなかだけで喜びを見出すようなひとたちが集まる都市という空間で何世代も子育てをしていったら、ものすごく長いスパンで見れば、そういう社会は衰退するのかもしれません。経済競争的な意味では不利に見える地方のひとたちのほうが、結局は生き残るのかもしれません。人類学的な視点でいえば。

ルポ森のようちえん
教育ジャーナリストのおおたとしまささんが「森のようちえん」の現場を取材。ヨーロッパの「森の幼稚園」との違い、モンテッソーリやシュタイナーとの共通点、非認知能力を引き出す自然のマジック、幼児教育・保育無償化制度の罪、都市部でもできる「森のようちえん」……様々な視点から新しいムーブメントを取材・検証し、魅力と課題を明らかにしている。集英社新書