明治2 年の吉原遊廓・金瓶楼
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「遊廓」の遊女たちはなぜ「前借金」で縛られたのか? その本質的な理由

江戸学の第一人者が考える

日本にとって「遊廓」とはなんだったのか。そして、どう語り継いでいくべきなのか——こうした問題意識にもとづき、江戸時代の遊廓の実態をつぶさに描いた『遊廓と日本人』(田中優子著、講談社現代新書)が刊行された。遊女が置かれた厳しい環境、一方でそこから生まれた絢爛な文化など、日本史の陰影の一端をご覧いただこう。

伝統芸能の観点

まず、私は『遊廓と日本人』の冒頭で、遊廓はもうあってはならないと書きました。では遊廓の歴史と記憶は封印するあるいは、消滅させるのがよいのでしょうか?そうは思いません。遊廓は二つの観点から、語り継ぐべきだと思います。

ひとつは日本の芸能史の観点です。詳述したように、遊女はそもそも芸能者で、遊廓と芝居は一体のものでした。いわば性と芸能が一体のものだったのです。そこから性にかかわる部分を切り離すことによって、今日の男性のみによる歌舞伎および能狂言が成立したのです。

明治以降、西欧の演劇が導入され、伝統的な芝居も女性を入れることによって新派となりましたが、歌舞伎は歌舞伎で変化することなく、今日まで続きました。なぜなら江戸時代を通して確立された表現を根本から変えることは歌舞伎そのものが消えることを意味したからです。

一方、遊廓は性のみで成り立つことはできませんので、そこに「恋の文化」「もてなしの文化」が成立しました。恋の文化は、平安時代以来、和歌と歌物語の中で成熟していた文化で、遊女はそのこともあって、書、和歌、俳諧、漢詩、文章、琴などの教養を積むことで遊廓を、文化を語り合うサロンにしました。

そのサロンで豪商や作家や画家や出版文化が育ったわけです。もてなしの文化は、茶の湯がその筆頭ですから、遊女は茶の湯もたしなみました。

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その中で、武家のみならず町人たちも茶の湯に親しみ、遊女と語り合いました。着物や帯、櫛かんざし、髪結い、香、化粧なども遊廓独特の展開をしました。初期の遊女たちは化粧をせず、髪も束ねる程度でかんざしもしませんでしたが、次第に着物や帯とともに豪奢になり、歌舞伎に影響を与え、歌舞伎から影響を受けるようになりました。

初期の遊女たちは芸能者でもあって、能を舞い、三味線も弾きましたが、それが踊り子に受け継がれ、踊り子が芸者衆になって、吉原遊廓で共存していたことは、芸能を継承する場としての吉原の重要性を、さらに増したわけです。

なぜ芝居から女性が排除され、次に少年たちが排除されたかは、すでに述べたように、そこに異常なパワーが集積されてしまったからです。

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