水銀中毒から原爆開発まで…“水俣病”の原因企業「チッソ」が北朝鮮で行っていたこと

平和国家日本の“不都合な真実”
伊藤 孝司 プロフィール

巨大化学工場の労働現場

私は尹さんの体験を聞いていて、日窒興南工場の跡でドキュメンタリー映画を撮影することを計画した。その場所は、現在では「興南肥料連合企業所」(以下、企業所)となっている。北朝鮮の重要な化学工場の中での撮影である。「取材は不可能」と何度も断られたものの、2005年に何とか3日間の撮影許可が出た。

興南工場で働いた3人(2005年5月7日撮影)

企業所は、尹さんと同じように日窒で働いた地元の人を工場へ呼んでくれていた。工作機械工場で働いた朴斗満(パク・トゥマン)さんと、産業報国隊として連れて来られて土木作業をした全熙龍(チョン・ヒリョン)さんだ。

工場の副技師長が、尹さんが働いた硫酸工場のあった場所へ案内してくれる。労働者の姿はまばらで、施設は稼動しているが老朽化が目立つ。周囲をしばらく歩き回っていた尹さんは「当時の面影はまったくない」と言う。

アジア太平洋戦争が始まると軍需工場である興南工場は、憲兵が構内を巡回するようになった。そうした戦時体制下の工場で、尹さんたちは働いた。

尹昌宇さんとかつて働いた工場跡(2005年5月7日撮影)

「仕事内容についての何の説明も安全教育もなく、工場へ着いた日から働かされました。そのためその日の内に、雑巾で機械を拭こうとしてそれに巻き込まれて腕を失った人がいました。

私に与えられたのは濃硫酸を扱う仕事です。この工場の煙突からは、黄色い煙がいつも上がっていました。構内にもその煙が漂っていて、嗅ぐとくしゃみが出ます。ここに1年間もいると肺結核になるんですよ。もっとも有害なガスを出したのはこの硫酸工場で、その次がアンモニア合成工場でした」

尹さんはこう語った。続いて朴斗満さんは次のように話した。

「工作機械工場ではベルトに手足を巻き込まれる事故が毎日のように起き、死亡することも多かったんです。しかもケガをすると、工場から追い出されました。ひどいのは、マグネシウム生産工場ではガスの中で働くのに、マスクをすることができたのは日本人だけだったことです!」

 

日本語をほとんど知らず、農村で暮らしてきた朝鮮人の少年たちを、巨大化学工場でいきなり働かせたのだ。話を聞いた3人からは、日窒による朝鮮人労働者への非人間的・差別的な扱いについての厳しい批判が続いた。

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