水銀中毒から原爆開発まで…“水俣病”の原因企業「チッソ」が北朝鮮で行っていたこと

平和国家日本の“不都合な真実”
伊藤 孝司 プロフィール

14歳で工場へ連行された尹昌宇さん

私は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)取材をする中で、戦後に水俣病を引き起こした「日本窒素」という企業が、朝鮮に建設した巨大化学コンビナートで何をしていたのか大きな関心を持つようになった。かつてそこで働き、今は平壌(ピョンヤン)で暮らす元労働者と会うことが出来た。

尹昌宇さんの自宅の机(2005年5月5日撮影)

尹昌宇(ユン・チャンウ)さんが植民地時代に暮していたのは、江原道(カンウォンド)淮陽(フェヤン)郡。1942年8月20日のことだった。暗くなってから、一人の警察官と鳥打帽にゲートル姿の3人の男たちが家へやって来た。

理由を告げられることなく、尹さんは家から引っ張り出された。泣きながら止めようとした家族は、「この時局において若い奴は働くべきだ!」と一喝された。まさしく、本人の意思に反した“拉致”である。

まず連れて行かれた警察署には、130人の若者が集められていた。その場で北海道の炭鉱と横須賀海軍工廠という日本行きの組と、朝鮮内の興南肥料工場と阿吾地(アオジ)炭鉱などに振り分けられた。この時、尹さんは14歳。当時のその年齢では、体格も小さかった。尹さんは興南工場へ送られることになり、列車に乗せられた。

興南工場について、日本人従業員の立場から書かれた本がいくつかある。『北鮮の日本人苦難記-日窒興南工場の最後-』(鎌田正二)には次のように記載されている。

「戦争が末期に近づくにしたがって、日本人労働者だけでなく、朝鮮人の募集も難かしくなってきた。そして農村から朝鮮人を強制的に工場に連れてくることが行なわれた。そして最初に行なわれたのが産業報国隊である。略して産報隊という。

まず工場からこの産報隊の出動を、道(どう)を通じ総督府に申請する。総督府はそれを道に、道は郡に、郡は面(めん)に割り当ててゆく。面は出動可能者の名簿から出動する産報隊員を選ぶ」

 

尹さんは後に、警察官と一緒にやって来た私服姿の男たちの正体を知った。それは面役場の役人2人と、興南工場の朝鮮人寮の舎監だった。

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