水銀中毒から原爆開発まで…“水俣病”の原因企業「チッソ」が北朝鮮で行っていたこと

平和国家日本の“不都合な真実”
伊藤 孝司 プロフィール

朝鮮の東海岸にある咸鏡南道(ハムギョンナムド)の興南(フンナム)は、百数十軒ほどが半農半漁で生計を立てている寒村だった。

「野口さんは山の上から手で指さして、『あそこからここまで買収せえ』といわれました。それがだいたい半径2キロメートルぐらいでした」(尾家麟祉『聞書 水俣民衆史5』岡本達明・松崎次夫編)

「朝鮮総督府」と警察を使って地主たちの反対を押し潰し、この地で生計を立てていた人々を追い出した。そして約1700ヘクタールもの土地を手に入れる。

興南工場の全景(『北鮮の日本人苦難記』より)

この場所に朝鮮窒素の「興南肥料工場」「興南精錬所」「本宮カーバイト工場」「アンモニア合成工場」「電解工場」を中心に、系列会社として「朝窒火薬」「日窒鉱業開発」「朝鮮石炭工業」などを次々と建設。朝鮮窒素は植民地・朝鮮での、重化学工業の中心となった。

日窒のある水俣からは多くの人が、植民地での豊かな生活を求めて興南へ移った。従業員数は年とともに増加して1945年には4万9000人にもなり、興南全体で約18万人もが暮した。巨大な企業城下町が出現したのだ。

興南の日本窒素の住宅地跡(2012年9月12日撮影)

肥料生産から始まった日窒は、朝鮮の豊富な地下資源や電力、そして安価な労働力を使い、次第に経営規模を拡大していった。それは朝鮮総督府と文字通り一体となって行われた。そして日本がアジア太平洋戦争へと向かうにつれ、軍部とのつながりを強めていった。軍との共同事業も行なわれるようになり、民需を切り捨てて軍需産業へと変わっていく。

また日窒は朝鮮で得た巨額の利益を基に、日本の傀儡国家「満州」と植民地支配下の台湾、日本軍占領下の海南島・インドネシア・シンガポールなどでも事業を展開した。

 

「聖戦下に於ける『日本窒素』はいまや一営利会社として之を見るべきでなく、一大総合化学国策会社と云ふべきであろう」(『日本窒素肥料株式会社事業概要』1940年刊)

と自ら述べているように、アジア諸国において軍事力を背景に資源と権益を求めた日本の国策に積極的に協力することで、肥大化していった企業だった。

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