水銀中毒から原爆開発まで…“水俣病”の原因企業「チッソ」が北朝鮮で行っていたこと

平和国家日本の“不都合な真実”
伊藤 孝司 プロフィール

国策で建設された「朝鮮窒素」

「日本窒素肥料」(以下、日窒)の創業者である野口遵(のぐち・したがう)は1927年、日本が植民地支配をしていた朝鮮において、世界で最大規模の化学コンビナート「朝鮮窒素肥料」を建設した(1941年に「日本窒素肥料」へ吸収合併)。

「チッソの歩みはわが国化学産業の歴史でもあります。1906(明治39)年、初代社長野口遵よって鹿児島県大口市に建設された水力発電所がその第一歩となりました。

1908(明治41)年には豊富な電力と石灰石を活かして、熊本県水俣市でカーバイドの製造を開始。社名を日本窒素肥料株式会社と改め、さらに当時の最先端技術であった石灰窒素や硫安の製造にも着手して、化学会社としての礎を築きました。(略)

1927(昭和2)年には北朝鮮に拠点を設立して、水力発電を中核とする世界屈指の大規模化学コンビナートを展開。事業分野も化学肥料や工業薬品、合成樹脂、金属精錬など広範囲におよび、総合化学会社としての地位を確立しました」(「JNC株式会社」と分離する前の「チッソ」ウェブサイトより)。

中国側から見た水豊ダム(1996年10月3日撮影)

野口は植民地朝鮮で、水力発電事業を自らが興すことによって、安価に硫安を製造する計画を立てた。社運を賭けた事業だった。

1926年に100パーセント出資の「朝鮮水電」を設立し、鴨緑(アムノック)江の支流にあたる赴戦(プジョン)江にダムと4ヵ所の発電所を建設。合わせて、約20万キロワットの発電能力があった。建設工事では事故と厳しい寒さで、朝鮮人と中国人の労働者数百人が死亡した。

 

後に「興南工場」の拡大によって電力が不足すると、新たに長津(チャンジン)江に発電所を建設。そして野口による発電事業は、中国との国境を流れる鴨緑江での巨大な水豊(スプン)ダム建設へと発展していった。琵琶湖の約半分もの広大なダム湖を造り、発電機7基で約70万キロワットを発電した。

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